令和三年 夏至
無敵の酔っ払い
プロレスラーの面々②
杜若の想ひ出
夏至—暦では夏に至った。
この時候の季語に杜若がある。
そのむかし、日本ではこの花の汁を染液として使っていたため「書付花/かきつけばな」と呼ばれていたものが「かきつばた」と変化したという。
また花弁が燕の形に似ているので「燕子花」という文字も当てられる。
芭蕉に「杜若 われに発句(ほっく)の 思いあり」があるが、絵画では尾形光琳の国宝『燕子花図屏風』が知られる。
『燕子花図屏風』は青山の根津美術館に収蔵されていて、毎年杜若の時期の春一ヶ月間のみ限定展示される。
娘が幼い頃、根津美術館、正確には美術館の庭には、散歩がてらに当時住んでいた外苑前のマンションからよく通った。
娘と二人の散歩コースは、まずマンションからほど近い『とんかつのまい泉』本店の売店前に「ご自由にお持ちください」の紙とともにビニール袋に入れて置いてある「とんかつサンド」を作る際に出た端材の「パンの耳」をいただいて、表参道交差点を渡り、角の寝具店小松屋商店の前を通ってみゆき通りを青南小学校の方へ向かう。
小松屋商店のウィンドウの室礼は季節毎に替えられていて、これを見るのが楽しみであったが、最近、再開発のためビルごと無くなってしまった。
青南小学校の向かい『フロム1ST』ビルの前を過ぎ『天ぷらの宮川』の先の交差点を渡ると目指す根津美術館である。
左に美術館の建物を見て敷地内を進むと、大きな池を囲むように傾斜を利用して山里を模した庭園が広がっている。
春、この池の廻りには美術館同様に杜若の花が咲く。
ところで、まい泉の「パンの耳」は、この池の鯉に与える餌として持ってきたのである。
石橋の上から手を叩くと、広い池のあちらこちらから丸々と太った鯉が大勢寄ってきて餌を求めた。
餌やりが終わった後は、庭に配されている大小三つの茶室のうち、いちばん素朴で小ぢんまりとした「牛部屋」という名の茶室の濡れ縁に二人座ってしばし庭を眺めるのが、娘と私のお気に入りの時間だった。
時々、鯉のおこぼれを貰って、ふたり濡れ縁でパンの耳を囓った。
季節が秋になると家から割り箸を持参し、餌やりを終えて空になった「パンの耳」のビニール袋に、熟れて落ちた銀杏の実を入れた。
庭庭師のおじさんから「沢山落ちて掃除が大変だから、どんどん持って帰ってくださいね」と言われ、調子に乗ってビニール袋をパンパンにして帰ったものである。
この銀杏の実は、塩と一緒に紙袋に入れて電子レンジでパンパンと弾かせて食べた。
銀杏は私の酒のつまみに、またおやつとして娘の好物となった。
やがて娘とは別れて暮らすことになり、私は根津美術館の脇の坂を下りきった所、娘は根津美術館の真ん前のマンションに越すことになったが、娘が小学生となり青南小学校に通うようになってからは、互いの時間も合わず美術館の庭に連れ立って行くこともなくなってしまった。
お互いが、以前よりもはるかに近い場所に越しながら、庭に行くことがなくなるという皮肉な状況であった。
それから数年後、根津美術館は大規模な建て替え工事が行われ、以前のように自由に庭を訪れることはできなくなり、入館料を払った人しか入庭できないようになってしまった。
田植の終わった田圃同様、かつての遊び場と思い出が失われてしまったような寂しさが残る。
ここからは、前回から続いて、我が青春の仕事場であり遊び場であった『銀座スコッチバンク』に集ったプロレスラーの面々の話の続きである。
GO!GO!ブッチャー
不沈艦スタン・ハンセンの他の、もうひとりは黒い魔術師アブドロ・ザ・ブッチャーである。
彼もハンセン同様、タッグパートナーのインドの狂える虎タイガー・ジェット・シンやアラビアの怪人ザ・シークと連れだって来た。
この三人も呑み方は穏やかであった。
特に、プロレス会場ではサーベルを口にくわえて常軌を逸したような目で観客を追い回すタイガー・ジェット・シンが、リング外では理知的で穏やかな紳士であることのギャップが思わず笑ってしまうほどであった。
シンが本国アメリカ(この人れっきとしたアメリカ人である)ではかなり手広く商売をするビジネスマンであるというのも、その立ち振る舞いから納得できた。
ブッチャーは日本での人気が最高潮の頃で、特に子供達に人気があった。
度々、試合終わりのブッチャーを追いかけて試合会場から店まで子供達が付いて来た。しかし、大人の酒の店である。子供達を入れるわけにはいかないので、子供達は店の外で立っている。
ブッチャーは、少しの間だからと我々に子供達を入れる許可を取って、手招きして子供達を店の中に入れ、サインをしてから子供がこんなに遅い時間まで外にいてはダメだと諭して、電車賃を渡して子供達を帰すのだった。
そう、ブッチャーは真っ当で優しいデブで紳士なオジちゃんなのである。
テレビのブラウン管越しからでも滲む彼の優しさの本質を感じ取った子供達に、ブッチャーは愛されていた。
ブッチャーは茶目っ気もまたたっぷりであった。
一度だけ店が跳ねてからブッチャー達と連れだって、某超一流ホテルのラウンジ・レストランで呑んだことがある。
やがてブッチャーがトイレに立った。
トイレへ向かう途中には、超一流ホテルのホテルマンであるわたくしは、何があっても動揺しません。またそのように他のスタッフを教育しております、と顔に書いてある黒服のベテラン風ホテルマンが澄まし顔で立っていた。
と、突然、ブッチャーはそのホテルマンに、リング上と変わらぬ凄い形相でウワッと手を広げ襲いかかった、いや、振りをして寸前で止まった。
気の毒なそのホテルマンの慌てようったらなかった。
恐怖に顔は引きつり、腰はほぼ砕けていた。
もしかしたらズボンの下は濡れていたかもしれない。
私達は声を立てて笑ったが、ラウンジで働いていた他のスタッフ達は下を向いて笑いをこらえるのに必死であった。
ブッチャーは笑顔でゴメン・ゴメンとその黒服の肩をポンポンと叩いて、黒服はどうにか元の澄まし顔に戻ったのであった。
良く巷では「プロレスラーはリングを降りると、ベビーフェースよりもヒールの方が良い奴が多い」と言われていたが、なるほどそうだなと身を以て体験した。
無敵の酔っ払い
天龍さんに関わる話の中で、酒は本当に怖いと思ったことがある。
その日、店が大変混んでいたので天龍さんには止むなくトイレ近くのカウンター席に座ってもらった。
トイレに行く客が〝あっ天龍だ〟と独りごちていた。
そんな中、普通のサラリーマン、本当に普通のサラリーマンのオジサンが天龍さんに絡んできた。
その絡み方が尋常でない。
あろうことか、そのオジサンは天龍さんに喧嘩を売っているのである。
なんと俺の方が強いから勝負しろと言っているのである。
当然、天龍さんは全く相手にしないが、オジサンのあまりのしつこさに、段々、顔が険しくなって来たので慌ててオジサンを店のスタッフで引き離したのであるが、どんなに酔っ払っていようが泥酔してようが、喧嘩を売っていい相手と悪い相手ぐらいは分かりそうなものである。
しかも、オジサンは相手がプロレスラーの天龍さんとわかっていて、なお喧嘩を吹っかけていたのである。
あな恐ろしや
同じような体験がもうひとつある。
大相撲の両国場所の千秋楽の日、友人から電話があり、今夜、小錦と呑むから来ないかと誘われた。
当時小錦が大関に上がる直前のことだったと思う。
夜半の仕事終わりに知らされた六本木の店に合流した。
小錦と同部屋の力士も何人か居てかなり出来上がっていた。
力士の呑み方も半端ではない。
アイスペール(氷入れ)をグラス代わりに氷とウイスキーを入れ、サイドウォーター代わりにビールを丼茶碗に入れてウィスキーと交互に飲み干している。
アイスペールには一度に一本のウイスキーが丸々入れられ、丼茶碗には中瓶一本が入る。
これを交互で一気呑みしているのである。
小さな店である、瞬く間に店の酒という酒が無くなってしまった。
河岸を変えようということで、六本木の交差点を皆でぞろぞろ歩いていた時である。
ここにまた、ごく普通のサラリーマンと思しき酔っ払いのオジサンが登場した。
案の定、小錦に食ってかかって来た。
止せば良いのに小錦にまとわりついて何かを怒鳴り続けている。
この時、ほぼシラフの天龍さんと、かなり出来上がった小錦の差が悲劇となりオジサンに襲い掛かった。
あまりにしつこくまとわりついて五月蝿いオジサンを、小錦は「あなたウルサイいよ」と言って優しく振り払ったつもりである、あくまでも小錦は優しく振り払った、つもりだった。
が、オジサンは当時まだ交差点にあった誠志堂の本屋のシャッターまで吹っ飛んだ。
ガシャ・ガシャ・ガッシャーンとすごい音がして、オジサンはシャッターの前でへたり込んだ。
六本木で遊んだことのある方ならご存知だろうが、誠志堂を挟んだ道路の真ん前は交番である。
一同で麻布警察へ移動となった。
麻布警察では、交番の警官が一部始終を見ていたのと、オジサンに怪我もなかったため、小錦に対するお咎めは特になく、お酒はほどほに、と意味のない注意を受けた程度だった。
反面、オジサンは酔っ払うにもほどがあると、懇々と説教されていた。
最後に小錦が色紙10枚ほどにサインと手形を押して放免となった——いい時代である。
この時、私が学んだのは、決して意識が飛ぶほど酔ってはならない、と、酔っ払ったオジサンは無敵である、のふたつの教訓だった。
今こうしてプロレスラーの面々や小錦とのことを思い返せば、子供の頃遊び場として迎えてくれた広くて大きな田圃が想い浮かんでくるのである。