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平成三年 寒露

2021年10月8日

楽園の居心地

ああ、TIP!

インディアン・サマー

寒露_朝露の冷えたるに秋の深まりの予感を感ずる頃
十月を境に着物も裏地のない単衣から、裏地である胴裏のある袷に替わった。

九月に仕舞い忘れた夏大島や能登上布などを、結城縮といった単衣物と一緒に陰干して桐箪笥に納める。

着物が袷となっても、これから晩秋以降にかけて、涼しい日々の中で暑いくらいの一日がぽっと現れることがある。いわゆる〝小春日和〟、アメリカでは〝インディアン・サマー〟と呼ばれる穏やかで過ごしやすい一日である。

こういう日は凌ぎやすいとはいえ、袷ではちとキツイことがある。こんな日のために、衣更えをしても長襦袢だけは一枚夏物を残しておいたりするのである。

さて、前回の続きリビエラ街道である。

エピキュリアンたちの饗宴—ニース

リビエラ街道—モナコ公国のお次は南仏ニースへと向かった。
ニースへと向かったとはいえ取材の話で、一日の終わりには宿のモナコはモンテカルロのホテルへと戻った。

取材でルイ・キャーンズでの食事にありつけた我々であったが、ニースのホテルに泊まれるほどには取材費が潤沢ではなかったからである。
世紀が変わり欧州の共通通貨がユーロになった途端、ヨーロッパの物価は高騰した。

その頃取材などの仕事で度々訪れていたイタリアで、物価の高騰を如実に感じた。通貨がリラからユーロに変わった途端に、物価が1.5倍以上になった感覚があった。特に困ったのがチップである。チップは当然のごとく後に取材経費には計上できないので旅行中の懐に大いに響いた。

リラの時代、大抵のチップは1000リラ札一枚で事足りた。1000リラは当時の為替レートで約60円、1000リラ札があればホテルのポーターやボーイには十分であった。それがユーロになった途端に1ユーロ硬貨になった。1ユーロに替わったばかりの頃の為替レートは100円程度であったが、どんどん上がり最高1ユーロが170円近くまで上がったこともある。

チップが60円から100円、120円‥170円と上がったのである。価格が上がっているのにも関わらず、1000リラ札から1€硬貨への様変わりは、なんだか有り難みまで薄れた気がする。

宿泊費や食事代などの滞在費も、為替レートの上昇に連れ軒並み上がっていった。気楽に食べていたホテルの朝食が5000円近くになり、朝はホテル周辺のバールで軽くカフェラテとブリオッシュやコルネットで済ますようになった。

同時期のニースでチップに関する話に次のようなものがある。

実録!ニースTIP地獄

パリに住む私の友人はその頃、カスタマイズした特別仕様のポルシェをドイツから日本に送るという仕事をしていた。
日本の仲間の会社が窓口となって、顧客の注文をとり、現地責任者の彼がドイツでカスタマイズを発注し仕上がりを確認、支払いを済ませた後に、確実に顧客の許に届くよう責任を持って日本に発送するという仕組みであった。
個人の希望通りにポルシェを自在にカスタマイズできるとあって、日本からの注文は引きも切らず、大いに稼いでいた。

ある夏のバカンスに、かねてからの憧れであったニースへ当時の彼女(日本のとある有名女優)とやってきた。
海岸沿いの高級ホテルを予約し、馬鹿高い宿泊費はすでに支払い済みである。
意気揚々と、彼好みにカスタマイズしたポルシェの助手席に彼女を乗せビーチラインのホテルについた。

ホテル正面の車止まりに車を乗り入れ駐車係にチップとして〝2€ユーロ硬貨(当時のレートで220円相当)〟を渡す—メルシー(ありがとう)とも言わず駐車係は素っ気なく車のキーを受け取り車を駐めに行った。ドアを開けてくれたドアマンに〝1€〟、部屋に案内してくれたボーイに〝2€〟、スーツケース4つを運んできたポーターに〝8€〟、部屋に落ち着くまでにチップだけで〝13€(約1,430円)〟かかった。
まあチェックインの時はこんなものだろうと彼は独り言ちたが—甘かった。

その夜のホテルのレストランの馬鹿高いディナーと、これまたボトルの値段かと紛うバーのカクテルの勘定のチップは奮発して15%程度を伝票につけた。

食後に彼女の願いでポルシェで街を流すことにしたが、ドアマンに行き帰りのドアの開け閉めで〝2€〟、駐車係に車を出すで〝2€〟戻って入れるで〝2€〟の計〝4€〟—相変わらず係は素っ気ない。
レストランのチップを入れると初日だけで〝50€(約5,500円)〟近い。

翌朝、優雅に朝食(伝票に二人分のチップ4€)を済ませた後、ホテルの専用ビーチでのんびりしようと、専用出口(ドアマンに1€)から出て車道を渡り(ビーチに行く宿泊客のために横断歩道がわりに車を止める係に1€)、ビーチにたどり着くとビーチ係がビーチチェアならぬ豪華ビーチベッドのパラソルを開き専用タオルをひいてくれ(二人で2€)その際に注文した馬鹿高いカクテル(伝票に10%)を持ってくる(二人で2€)。

あっ!、海岸で読む本を忘れてしまったと部屋まで取りに帰って戻る。(ドアマン出入りで2€/横断係往復で2€)彼女がビーチのトイレ(タオル係1€)に行っている間に、ビーチベッドのタオルが片付けられているので再度頼む(1€)。
廻りに持参のペットボトルの水を飲んでいる客などいないので、これまた馬鹿高い水(伝票に10%)を頼んで持ってきたときに(二人分で2€)
—彼は思った。一日ビーチと部屋を往復するだけでチップは一体いくらかかるんだ—チップ地獄陥った—これではリラックスどころかビーチに出ようとするたびにストレスが溜まってしまう。ビーチウェアのポケットはユーロの硬貨だらけでちっとも優雅じゃないぞ。

と、彼はそこでようやく気付く。

他の宿泊客は紙幣で払っていると—ということは最低でも5€はチップで支払っているということだ。どうりで駐車係が素っ気ないはずだ。翌朝更に観察すると、慣れた宿泊客は、どうも一日分のチップを各係に朝のうちにまとめて支払っているようで100€紙幣が飛び交っている。

彼は知った。最低でも宿泊代と同じくらい、もしくはそれ以上のお金がこのホテルに滞在するには必要であることを—彼が支払ったチップの額は決して低くない。パリのサン=トノレあたりの高級ホテルで立派に通用する額だ。

しかし、ここニースでは、チップに硬貨などお呼びではないのだ。招かれざる客であるを悟った彼は、この仲間に入ることを諦め開き直ることを選んだ。残りの滞在日を部屋の冷蔵庫のエビアンを握りしめて、ホテルからビーチまでを全力でダッシュして係をぶっちぎり、最低限のチップで済ましたという。

お陰で女優の彼女とは別れてしまい、二度とニースには近づかなかったということだった。

間違って己の居るべき場所でない所に来てしまったら、決して争わず、トットと逃げ出すのみである。

まだまだ、リビエラのエピキュリアン(享楽主義者)の話は続く。

 

編緝子_秋山徹