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令和三年 立秋

2021年8月7日

最期に遺す書

夏の果てに

今朝の秋

立秋—夏の果てに、夜の秋を感じて、今朝の秋を迎える。
〝夏の果て〟は文字通り、暦の上での夏の終わりのこの時期を指し、〝夜の秋〟は、日中はまだまだ暑いが、夜になるとふと秋を感じるほどに涼しさを感じる瞬間をいう。

〝今朝の秋〟は、立秋の日つまり本日の朝のことを呼ぶ。

齢を重ねてなお、新たにこのような素敵な言葉を次々に知ることになろうとは、若い頃の頃の不勉強を恥じるとともに、日本語の奥深さをつくづく感じる今日この頃である。

しかし、年寄りの特権はこれらの言葉を味わいながら酒が呑めることか。

立秋には銀座の野の花〝司〟あたりで露草か鷺草(さぎそう)などを一挿し求めて花器に放り込み、これまた虎屋や塩瀬あたりの上生菓子を飾ってから、お下がりの菓子をいただきながら日本酒を舐めるのが嬉しい。鷺草は芳香を放つ夜がさらに良い。

若い時分の日々の流れの中ではなかなか作れなかった時間である。隠居同然のこの歳になって初めて味わえるゆったりした流れのひと時であることよ。
もっとも、二〜三十代で、野の花と上生菓子を眺めつつ昼間からのんびり酒を呑んでいる奴がいたら、「お前、大丈夫か」と言いたくなるだろうが。

日本人の季節を愛でる術は、平安貴族あたりの夜半に室礼を設えてから身形(みなり)を整え、酒(ささ)を嗜みながら歌を詠む、という姿が最も優雅に思われる。この場合、酒と詠歌は切り離すことができない。

酒にほろ酔い歌を詠む、この想いを詠むということ、風情に感ずる己の心情を言葉にすることが肝要となる。言葉を表すことで感性・知覚という無形のものが形を持ち残る。そして、それは魂を持ち言霊として他の人の心にも沁み入る。

銅メダリスト 円谷幸吉

東京オリンピックが始まった。
57年前の東京オリンピックの当時、私は7歳であった。
その7歳の時の記憶に、女子バレーの〝東洋の魔女〟、柔道の〝アントン・ヘーシンク〟、マラソンの〝裸足のアベベ〟がある。これらの〝言葉〟は、後で知ったものではない。紛れもなく東京オリンピック開催中の昭和39年に7歳の私が見聞きしたもので、あまり上等とは言えない私のお頭(つむ)に刻まれたものである。そして死ぬまで私の記憶に残り続けるだろう。

オリンピックとは、かくも人の記憶に残る特別なイベントであるのか。

第1回の東京オリンピックのマラソン競技で〝裸足のアベベ〟同様に私の心に残っているのが〝円谷幸吉〟である。
自衛官競技者の円谷幸吉は、陸上長距離種目からマラソンに転向してわずか7カ月余りで、オリンピックに出場して銅メダルを獲得した。
ゴール前スタジアムに登場して最後の最後に抜かれそうになり、実況のアナウンサーの〝ツブラヤがんばれ!〟という絶叫が7歳の耳に残る。

〝男子たるもの後ろを振り返るな〟という父の教えを守り、スタジアムでも後ろを振り向かずに、追い上げる後続に抜かれてしまったため、金メダルのアベベに次ぐ銀メダルのはずが銅メダルになったという逸話があるほど、生真面目な男であったという。

次回開催のメキシコ・オリンピックでの〝打倒アベベ〟を掲げ、国民の期待を一身に背負って練習に励んだ円谷だが、オーバーワークによる故障を抱えてメキシコ前には満足に走れる状態ではなかったという。自身の体の状態を鑑みて、当時の円谷の希望は現役の競技者ではなく、自衛隊体育学校の指導者となることだったが、周囲の期待がそうさせなかった。

国民の期待と自身の体の状態の板挟み・ジレンマに陥った生真面目な青年は、メキシコ・オリンピック開催年(昭和43年)の1月9日、自衛隊体育学校の宿舎自室においてカミソリで頚動脈を切り自殺してしまう。享年27歳の若さであった。

東京オリンピックでの銅メダルは、本人はもちろん周囲の人々、及び国民の〝誉(ほま)れ〟であったが、その〝誉れ〟によって円谷は潰され、不幸にも命を奪われてしまった。

円谷、最後の〝言葉〟である血塗の『遺書』の内容が哀しい。

円谷幸吉『遺書』全文

父上様母上様 三日とろろ 美味しゅうございました、干し柿 もちも 美味しゅうございました。
敏雄兄姉上様 御すし 美味しゅうございました。
勝美兄姉上様 ぶどう酒 りんご 美味しゅうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ 美味しゅうございました。
㐂久造兄姉上様 ぶどう液 養命酒 美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難うございました。モンゴいか 美味しゅうございました。
正男兄姉上様 お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。

幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、彰君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君
立派な大人になってください。

父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。気が休まる事なく 御苦労 御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

校長先生 済みません。
高長課長 何もなし得ませんでした。
宮下教官 御厄介お掛け通しで済みません.
企画室長 お約束守れず相済みません。
メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます。
一九六八 一、  (原文ママ/遺書画像より書写)

前半に繰り返し書かれた〝食べ物の頂き物〟〝美味しゅうございました〟という〝言葉〟は、円谷がその身に背負った期待の重さそのものであろう。

日の丸を背負うオリンピックという場は怖い。

松尾芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という辞世の句は誰もが知るものであるが、人に読まれることを前提で読んで後世に残った。

一方、万人に読まれることを意図せずに認(したた)めた遺書で、多くの人々に記憶されているものは円谷幸吉のこの『遺書』以外には無いのではないだろうか。

この『遺書』を映画『駅・STATION』の中で高倉健が朗読している。『遺書』を読む健さんの朴訥な調子が悲しみを一層募らせ、この映画を忘れ得ぬものにしたシーンである。

人が最期に遺す書はその人の人柄と生き様を現わす。
このコラムも掲載が80本に上った。
私にとってこのコラムは、娘に遺すいわば『遺書』として書いているつもりであるが、果たしてご本人はどう感じてくれているのか—それ以前に読んでいるかどうかも怪しい。

お盆が近い。

編緝子_秋山徹