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令和三年 清明

2021年4月4日

伊曽保物語

アリとキリギリス

お天道様と言霊

清明—春爛漫。万物清く朗らかで春たけなわなり。
万物とは私たちを取り囲む全てのもの。
それは生物だけでなく山川や草木、無機質の物までの全てを含む。

仏教の中には「草木国土悉皆成仏」という思想がある。
人間だけではなく森羅万象、悉(ことごと)く皆に魂があり成仏するという。

全てのものの中に霊魂は宿るというアニミズム(animism)にも通じ、日本神道における八百万の神もこれであろう。

日本人が窮地に陥った時や切羽詰まった時に思わず心の中ですがる〝神さま〟というのは、日本神道でも仏陀でもなく、ましてやキリストでもなくそれはいわば〝天〟または森羅万象の中心にある〝お天道様〟という観念に近いと私は想う。
「天網恢々疎にして失わず」の〝天〟、「お天道様が見ているぞ」の〝お天道様〟である。
正しい行ないをしていれば「天は見放さず」「天が味方する」充分な下準備をして「天に任せる」「天命を待つ」、日本人にとって〝天〟は〝神〟よりも一段上の高みにあるもののような気がする。

日本人には誰も見ていないところでも、おのれの行ないは必ず天が見ていて、行儀を良く正しくそして美しくすることで次に慶き事が起こりますようにと願う精神がある。
以前もこのコラムで記したが、サッカーの国際試合などで日本人サポーターがスタジアムを掃除して帰るのが賞賛されることがあるが、これもこの行為によって次に我がチームに良いことが起こりますようにという願いが込められている。

森羅万象の中には人が発する言葉も含まれ、言葉にもまた魂が宿る。これを古より〝言霊〟と呼ぶ。

人があらゆるものを表現し発する言葉には霊的な力がある。

近頃、朝のバラエティ番組で某芸人がアイヌの人たちに絶対に使ってはならない言葉を使って大問題となったが、言葉は時に肉体的な暴力以上に人を傷つける。

テレビ番組での芸人の不用意な言葉に対してはテレビ局として素早く謝罪の意を示し、担当プロデューサーが更迭されたと聞く。
この事案に対し政府がテレビ局に対して厳重に注意・指導したいうが自分たちの足元はどうか。
1899年(明治32)アイヌ民族保護に関する法律が制定されたが、それは「北海道旧土人保護法」というとんでもない名称であった。この法律が名称と共に廃止となったのはほぼ百年後の1997年のことで平成も九年が過ぎた世になってからである。

この何の配慮も尊厳のかけらも感じられない名称を、百年もの間公式の法律の名称として存在させていたというこちらの方がテレビ局などより限りなく罪が重い。

侮蔑される側に比べ、辱しめる側は無知で鈍感な上に冷酷である。これが往々にして政府などの体制側やマスメディアなどといった権力を持っている側に散見されるのが悲劇である。

伊曽保物語/イソップ物語

イソップ物語』が初めて日本に伝えられたのは、室町時代末期にイエズス会の宣教師によってであり日本では『伊曽保物語』と呼ばれた。
『イソップ物語』は、紀元前6世紀に実在した寓話語りが得意なアイソープスという奴隷の作となっているが、実際にはアイソーポスが語ったもの以外に各地で伝わってきた民話や寓話(ぐうわ)を集めたものとされ日本の『古事記』『日本書紀』にも通じる。

寓話は、動植物や物を擬人化した比喩によって人間の営みの中で起きる出来事、そこから導かれる教訓や道徳などを示した物語である。

—もしもし かめよ かめさんよ
せかいのうちに おまえほど
あゆみの のろい ものはない
どうして そんなに のろいのか
文部省唱歌(作詞:石原和三郎/作曲:納所弁次郎)

と、童謡にもなっていて日本的であまりにも馴染み深い『ウサギとカメ』の物語が日本の〝むかしばなし〟の類かと思っていたら、これもイソップ物語であった。

ウサギとカメが競争して、途中で休んだウサギがコツコツと歩んだカメに負けるという、真面目に日々努力することが大切であると教える物語であるが、スタートとゴールにいたカメは別のカメで途中ウサギの邪魔をするカメもいたという別のストーリーのものもある。
後者はなかなか子供に聞かせ辛いストーリーだと思うが、現代日本ではこのくらい抜け目なく勝ち抜けと教えたい親も存在するかもしれない。

同じように弛まぬ努力が大切で〝天は見ている〟というようなものに『アリとキリギリス』がある。(キリギリスがセミであるパターンもあるらしい)

春夏にバイオリンを奏でていたキリギリスとせっせと働いて食料を備蓄していたアリ、冬になり食べ物がなくなったキリギリスがアリに食を乞う。アリはコツコツと働く重要性を説いてキリギリスに食べ物を与える。これにはアリは頑なに食べ物を与えずキリギリスは死んでしまうというストーリーもある—んー、無慈悲である。

このキリギリスを享楽者、アリを勤勉者とする物語に生物学者の福岡伸一は異を唱える。
「虫好きの私からすると、この物語、いかに寓話とはいえ、自然の実態からかけ離れ、あまりにも擬人化が過ぎると思う。キリギリスが草むらで鳴いているのは、パートナーを求めて遊んでいるのではなくて必死のアピールをしているのである。そして全てのキリギリスは冬を前に生命が尽き、土に還る。淡々と自然の掟を受け入れている」
だらだらと無為に歳を重ねる人間に比べ、なんと健気な虫ではないか。
さらに「一方アリの方も自然に生きている、働きアリの寿命はせいぜい2、3ヶ月。しかも吝嗇に財を溜め込んでいるわけではなく、巣を維持するのに必要最低限の餌を集めているだけである。だから、アリを勤勉な者のたとえ、キリギリスを享楽者のたとえに使うのは、人間の勝手、全く表層的な思い込みに過ぎない」と記す。

擬人化して物語を紡ぐ寓話であるから仕方のないことではあるが、同じ物語も虫たちの側の世界から見ると景色は全く違って見える。

もっとも「これではキリギリスが可哀想だ」と思うのもまた人間だけであろうが。

善悪や道徳観・倫理観の定義は、民族や環境、時代、このように見る側によって変化する。
ニーチェの箴言に「ある時代が悪と感ずるところのものは、通常、かつて善と感ぜられたものの季節外れの反響である」というものがある。

移ろいやすい善悪や倫理観、これを超えるものが絶対的真理であり、それが宗教であればブッダやキリストやアッラーの神となり、我々は〝天〟〝お天道様〟と論理的に頭ではなく肌で感じるのである。

と、あれこれ考える人間を尻目にキリギリスは今日もまた自然の摂理の中、種の保存のためにパートナーを求め一生懸命に鳴く。

編緝子_秋山徹