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令和三年 小雪

2021年11月22日

ある商社マンの噺

ターニング ポイント

霧氷

小雪—徐々に寒さが募ってくる候。
立冬から二十四節気は、小雪・大雪・冬至・小寒・大寒を経て立春へと進む、しかし、小雪以降は覚えやすいということはあるが、ただ暑い時期を〝夏〟、寒い時期を〝冬〟と呼ぶような、本来の日本の言の葉らしくなく、身も蓋もなく情緒に欠けるような気がするのは私だけであろうか。

十月八日の寒露に、——着物が袷となっても、これから晩秋以降にかけて、涼しい日々の中で暑いくらいの一日がぽっと現れることがある。いわゆる〝小春日和〟——と、記した。
しかし、〝小春〟とは旧暦の十月(新暦では十一月から十二月上旬)の異名であるため、〝小春日和〟とは初冬のこの時期の晴れて陽気の良い日のことであるというのを昨日知った。
知ったかぶりをして文章を書くと恥をかくという見本であり、汗顔の至りである。
まったく日本語は果てなく興味がつかない。

この時期、山中に現れるものに霧氷がある。
霧氷にはその生成条件によって〝樹霜・樹氷・粗氷〟があり、〝樹霜(じゅそう)〟は樹木の枝に風上に向かって氷の結晶がついたもの、〝樹氷〟は枝の水滴が急速に冷えて花のように白く凍ったもの、〝粗氷(そひょう)〟は空気中の水分が凍って樹木についたもので透明なもの、とそれぞれに違いがあるそうだ。

先日、信州在住の映像作家・尾上春幸さんがアップしたYouTubeの動画で、信州に今年初の霧氷が現れたのを知った。
4年前、海外向けに日本を紹介する動画を制作する企画に参加していた際、尾上さんにずいぶん素材を提供していただいたご縁で作品を拝見しているが、尾上さんがカメラという絵筆で描く『信州の四季』には愛情が溢れていて、気韻生動とした趣を秘めている。

『霧氷が輝く冬の聖高原』撮影/尾上春幸

『田ノ原湿原に冬の天使が舞い降りる』撮影/尾上春幸

徒らに馬齢を重ねる我が身に、尾上さんの作品は一服の清涼剤であると同時に刺激剤でもある。

刺激を受けて、先にこのコラムでモノの見方を考え直した逸話を記したが、同じく印象に残る『ある商社マンの噺』をご紹介したいと思う。

バンコクの駐在員

バンコク在住の友人に紹介された人の中に、Fさんという商社マンの人がいた。
私と年嵩がほとんど一緒で、紹介された当時は四十代に差し掛かろうかという頃だったと思う。

大手一流商社のバンコク駐在員である彼には、会社からバンコク中心街にある高級マンションが住まいとして与えられ、彼専用の車と運転手がつき、通いのメイドが充てがわれていた。
毎朝、運転手が自宅に迎えに来て出社する。
彼が出社した後には、別の運転手が息子を日本人学校まで送り、亭主を送り出して息子を学校まで見送った妻君は、再び運転手が息子を学校から連れ帰るまでの間、暇になる。

こんな時、駐在員の妻たちは概ね二通りに分かれる。
積極的に地元の人と交わり、その国の文化を勉強し、言葉を覚えて現地に溶け込もうとする人と、駐在の妻同士で仲良くレストランやエステなどに通って〝有閑マダム〟化する人である。

有閑マダムを非難するつもりはない。
旦那の短い赴任期間に、豪華マンションに住まい、専用の運転手・メイドが付くという日本では到底味わえない特権的な生活を満喫することは、決して悪いことではあるまい。

天然資源の取引が専門のFさんも忙しい。
通常の業務に加えて、東京の本社からやってくる取締役や部長クラスの出張では、現地ガイドよろしくフルアテンドの仕事が待っている。
平日・週末に関係なくゴルフのお供があり、夕は食事に、夜遊びの案内もあり午前様も珍しくない。
夜の歓楽街の悪所への案内などは特に重要であるとして、普段から情報収拾を怠らない_まあ、こちらはどちらかというと己れの楽しみであるが。

こんな時も、専用の運転手は夜遅くまで待機していなければならないが、割りの良い時間外手当がつくので、喜んで夜の勤務をこなす者が多いらしく、またそういう人間でなければ長く勤まらないという。
もっとも、タクシーの運転手などに比べれば、実働時間が短く身入りが良いので、人気の商売であるらしい。

本社の上司の出張が重なれば、接待残業の多いFさんの妻君は、より有閑となる。

バンコクに赴任して五年が経って、妻君がレストランやエステ通いにも飽き、息子の今後の教育を真剣に考えなければならなくなった頃である。
商社マンの通例に従えば、そろそろ帰国し本社勤務をせよという辞令が来るであろうと期待していたFさんの元に届いたのは、同じく東南アジアの小さな島国支社への異動命令であった。

バンコク同様、瀟洒な一軒家と専用車と運転手が付くという待遇であるが、妻君と息子はさっさと日本に帰国し、島国にはFさん一人で単身赴任することとなった。
この島国勤務での肩書きは一応支社長というもので形式上は昇進であったが。実質は本社復帰してからの〝出世コースからは外れてしまった〟という左遷に近いものだった。
それでもFさんはこの状況を挽回すべく頑張った。
ここ島国では、物見遊山のような上司の出張に付き合う必要もなく業務に集中できたため、僅かではあるが支社の業績は上がった。

しかし、Fさんには悩みの問題がひとつあった。
それは現地スタッフの勤労意欲がとても低いことだった。
同じ東南アジアであるバンコクに比べ、この島国の職場には怠惰な雰囲気が蔓延しているようにFさんには感じられた。

日本やバンコクとは違い、フランス領であったこの島国の慣習として給料は欧米流に週払いであった。
週末前の金曜の就業終わりに、月曜日から金曜日までの五日間分の給料を払うのであるが、現地スタッフの中には五日間1度も会社に顔を出していないのに、金曜の夕刻に平気な顔をして給料を貰いに来る者がいる。
お前の分はないよと告げると、また平気な顔で帰っていく。

たまりかねたFさんは現地スタッフのひとりに訊いた。
「どうして、君らはそんなに働かないのか」

彼は答える代わりに、Fさんに質問してきた。
「では、どうして日本人はそんなにしゃかりきになって働くのか」

Fさんは答えた。
「それは、歳を取って会社を辞めてから、夫婦で穏やかな気候の場所に住み、好きなことをしながら、のんびりと本でも読みながら暮らすためだ」

現地スタッフは答えた。
「それは、今、私がやっている生活のことか」

数年後、Fさんはその小さな島国で、日本人相手のこれまた小さな旅行会社を立ち上げて、そのまま現地に住み着いた。

彼からの仕送りを得て、妻子は離れたまま東京で暮らしている。
息子は無事大学に入り、休みにはFさんの元に遊びに来るが、妻君は来ない。
妻君も、息子も、メイドと称する若い現地の娘がFさんの愛人であるというのは薄々感じているが、今更あえて問題としないでいる。

商社マンとしてはドロップアウトしてしまったFさんだが、彼個人の人生としては幸せだったかどうか、機会のあるときにじっくり訊いてみたいと思っている。

 

編緝子_秋山徹