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令和三年 春分

2021年3月20日

野巫(やぶ)医者

子規と逝き様

彼岸_正岡子規

春分—太陽が真東から昇り真西に沈んで、昼と夜の長さが真半分になる日。冬至や立春などと並ぶ〝二至二分四立〟のひとつであり二十四節気の中でも重要な時候である。

春分を中日としてこの前後三日間を含めた七日間が〝春の彼岸〟となる。

今年は17日が彼岸の入りで、本日春分の日の20日が中日、23日が明けとなる。

彼岸を詠んだ正岡子規の句に次がある。

「毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは」

34歳で早逝した子規が詠んだと思えば、〝毎年よ〟という頭の句が感慨深い。

国語辞典で紐解けば、あるいはパソコンで文字変換すればお判りのように、正岡子規の子規は〝ホトトギス〟の漢字表記である。
結核病みで喀血するおのれの姿と「鳴くと血を吐く」といわれるホトトギスを重ね合わせて子規と俳号したとされる。

1895年、子規は日清戦争で『日本新聞社』の従軍記者として戦地に赴いた際、大連から日本に戻る船中にて喀血し重態となり、その後死ぬまでの七年間を病の床に伏した。
34歳の生涯の内、死すまでの七年間とは、人生の五分の一以上を占め、成人してからだと半分の長さとなる。
しかし、彼の日本文学史上に残る功績である句作と歌作、歌論、後進育成は、この七年間の病臥の時に生まれた。
まさにホトトギスのごとく、血を吐きながら句を鳴いた(詠んだ)のである。
そしてその句は、ホトトギスの鳴き音と等しく我々をいつまでも魅了する。

この病臥における子規の創作活動を芥川龍之介は『病中雑記』という一文で「然れども子規の生活力の横溢せるには驚くべし。子規はその生涯の大半を病牀に暮らしたるにも関らず、新俳句を作り、新短歌を詠じ、更に又写生文の一道をも拓けり。しかもなほ力の窮まるを知らず」と評している。

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。」という書き出しで始まる『病牀六尺』など、子規には闘病中に記された日記や随筆がいくつかあるが、そこから結核病みの鬱々とした悲壮感を感じることはなく、冷静に自分を俯瞰しているのが観て取れる。

萩原朔太郎は、『病床生活の中での一発見』という一文の中で
「何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとつて、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考へても疑問であつた。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解つた。—(中略)—あの一室に閉ぢこもつて、長い病床生活をしてゐた子規が、かうした平淡無味の歌を作つたことが、初めて私に了解された。世にもし「退屈の悦び」「退屈感からの詩」といふものがありとすれば、それは正岡子規の和歌であらう。退屈もそれの境地に安住すれば快楽であり、却つて詩興の原因でさへあるといふことを、私は子規によつて考へさせられた。」と記す。

死に様は生き様

子規が病臥した時代に結核を病むということは、死に至ることを意味した。
大連から日本へ向かう船の中で喀血した子規は、それ以降の七年間を死と向き合って創作活動を続けたはずである。

否応無く死生観/メメントモリというものに直面した子規は、「病床六尺」という世界で「退屈も快楽」という境地に至って「生活力の横溢せる」結核病みとなり、結核さえも「詩興の原因」として歌を詠じてみせた。

結核による病臥と死に至るまでの期間は「あの世とこの世の彼岸」である。
この彼岸に子規は生き様と死に様・生き方と逝き方を、夏目漱石をはじめとする友人、高浜虚子や伊藤左千夫らの後進にみせた。
この彼岸の七年間もまた正岡子規の作品と呼べるかもしれない。

死に様と生き様について、前回も登場いただいた中村仁一医師は次のように死に行く者の務めは家族や親族に死に様を見せることだと記す。
「死から生を学ぶ—かつては、病院ではなく、自宅で死ぬケースが多くありました。しかも、家族や親族の数が多かったから、わりと身近なところに日常的に死がありました。—(中略)—もともと、「死」は自然の出来事だったので、先人はこれを知恵と長い時間をかけて飼い馴らしてきました。ところが、ここ数十年の間、疎遠にしたため、ふたたび野性化し恐怖の対象になってしまったのです。〝死〟を考えることは〝生〟を充実させることにつながり、〝生〟を輝かせるためには〝死の助け〟が必要です」『 医者に命を預けるな/PHP文庫

一年四ヶ月前に五歳違いの妹が〝乳癌〟で逝った。
享年57歳であった。
二年前の三月に妹より入院した旨の連絡が突然あった。
何事かと訊ねると、乳癌が脊髄に転移して下半身不随になったという。
乳癌を患っていたというのをその時に初めて聞いたが、実は十六年ほど前に告知され家族にも内緒にしていたという。
のちに妹の亭主に訊いたところ、今回の緊急入院まで家族にも一切知らされていなかったという。

十六年もの間乳癌を家族にも隠していられるものなのか、疑問に思っていたが、前述の山本仁一医師によると「癌と闘うという攻撃的な治療をすると激痛を伴うが、癌と共存するという対処をすると痛みを伴うことはほとんどない」ということらしい。

薬学部出身の妹は薬のプロであり医療の知識も一般の人間よりは豊富であった。
その彼女が、抗がん剤を一切使わずに、また放射線治療や手術で癌と闘うのではなく、癌と共存することを選んだというのは癌と向き合う方法のひとつを私たちに提示してくれたと思う。

なぜ倒れるまでに治療しなかったのかという意見もあろうが、
抗がん剤や放射線治療などの癌治療を行なっていたら、子供達と過ごす十六年間の通常の生活は無かったことを妹は知っていたのだろう。

妹は八ヶ月の入院生活を送って最期は穏やかに逝った。

異論のある方もいるだろうが、私は家族と親族に見事な死に様を見せてくれて、天晴れであると我が妹ながら感心している。

野巫(やぶ)医者

妹のように逝くにしても、病院や医師との関わり方も重要になってくる。

通常〝藪・ヤブ医者〟は治療技術の稚拙な医者、充分に病を治すことのできない医者という意味で使われるが、仏教では〝野巫医者〟と書き、「治療しかできず。患者の精神を正しい方向に導ことのできぬ未熟な医者」となるそうである。

そうなると山本仁一医師が次のように記しているように、世の中は当然〝野巫医者〟だらけということである。
「—病気といかにつきあうかは、医療の問題というより人生の問題—現在、病気の中心は、慢性の疾患、生活習慣病という、うつらない病気に移行しています。これらは、生涯つきあう病気です。病気といかにつきあうかは、医療の問題というより人生の問題です。しかし、ふつう、医師は医学の、それも病気の勉強しかしていません。だから、必ずしも豊富な人生体験をもっているとは限らず、また、人生修行を格別してきたわけでもありません。したがって、プロとして、技術的な面では全幅の信頼を寄せられても、精神面においても当てにしていいとは限らないのです。そこで、基本的には「頼るな、任すな、利用せよ」となります。利用するのはいいですが、無条件に任せてはいけません。まして、何もかも頼ろうとするのは、あまりにも無謀といっていいでしょう。」『医者に命を預けるな/PHP文庫

もちろん現在の医療教育制度で医者に〝野巫医者〟以上のことを望むのは酷であることは私もわかっている。

しかし、医者もまたおのれの死生観というものにじっくり向き合ってみれば、患者に接する態度も精神面では変わってくるのではなかろうか。
医療教育に「死生観/メメントモリを考える」のカリキュラムを是非とも加えていただきたいと願う。

ただ現実的には、医学的に生命を維持する方法を知ってはいるが、シャカリキにそれを使うのではなく、患者の年齢、人生を鑑みてあえて自然な死を提供する方法をとることができる医者に奇跡的に出会うか、山本医師が言うように医療はほどほどに利用するしかなさそうである。

天寿とは天から授かった寿命である。
それが3歳であるかもしれないし90歳かもしれない。
しかし、それまでの生き方と逝き方まで天が決めてくれているわけではない。
それはおのれで背負っていくしかない。

編緝子_秋山徹