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令和三年 霜降

2021年10月23日

底抜け

あるフランス人の噺

続・エピキュリアン(epicurean)達の宴

霜降_野山に霜が降り始める時候に暖かい南仏のお噺である。

コルシカ島の貧しい家で育ったジャンルイは、高校を卒業すると島を後にして一旗揚げようと花の都パリに出た。
なんの技能も学歴もない彼が、働き口を見つけるのには苦労したが、どうにかサントノーレ通りの商店の下働きの職を得た。

彼が働き口を得たのは観光客にパリ土産を売る店で、客のほとんどは当時パリで目につくようになった日本人団体ツアー客だった。

彼らのツアーの多くは1週間足らずの日程でイギリス・ロンドン、フランス・パリ、イタリア・ローマを巡る、いわゆる「ロン・パリ・ローマ」と呼ばれるツアーで、慌ただしくヨーロッパの有名都市を訪れるというダイジェスト版のような旅行だった。

彼の仕事は、ツアー客が店で買った土産を彼らの宿泊するホテルまで届けることであった。
ツアーの途中で店に寄った客が、この後、手ぶらでパリの街を安全に満喫できるようにというサービスである。
この仕事には二人の担当スタッフがいたが、ジャンルイともうひとりは古株の日本人の男だった。ジャンルイの方はもっぱら荷物を運ぶだけだったが、日本人の先輩には重要な仕事があった。

ツアーの団体には、旅程の間日本から旅行会社の添乗員が付き添うが、各国の都市ではそれぞれ現地のガイドが添乗員とは別に付く、そのほとんどは日本人であるが、たまに日本語が堪能な現地人であることもある。

旅程の際にどの土産物屋に立ち寄るかはガイドが決め、ツアーグループはそのスケジュールに従って動く。
このガイドと良い関係を築くことが、店にとっては重要なポイントであった。

当初、店は客を案内してくれるガイドに心付けを渡していたが、店舗間の競争が激しくなると、やがて、ツアーグループの売上高に対するパーセンテージの手数料、いわゆるキックバックとなり、これが結構な金額となった。
ガイドの中にはこのキックバックで家を購入した豪の者もいた。

一方同じくツアーに付き添う添乗員は、旅行会社の社員もしくは手配会社から派遣されたスタッフであるため、個人的な収入に当たるこれには手を出す人間が少なかった。

やがてこの旨味は旅行会社の知るところとなり、ツアー客の売上手数料は、パッケージツアーの重要な収益のひとつとしてツアーを作成する際の収支の中にあらかじめ予算として組み込まれていった。

売上高の手数料が旅行会社への支払いとなった後も、ツアー客が店に寄るにはガイドの協力が大きく左右されるため、ガイドの心付けはその後も続いた。

ジャンルイたち店の外回りのスタッフの大きな役割のひとつは、これらガイドや添乗員に対するケアーであった。

ツアーの最中には、往々にして突発的に予期せぬアクシデントが起こることがある。ツアー客の迷子や急病、レストランやホテルの予約が消されていた、スリや盗難被害の警察への届け出_等々、中にはツアー客の自殺なんていうものまで、ありとあらゆる事が起きる。

概ねこの種の対応には、添乗員やガイドが相談しやすい日本人スタッフが担当していたが、ジャンルイも積極的に対応した。ジャンルイは、助けを求められれば、深夜だろうが、明け方だろうが時間に関係なく駆けつけるようにした。

こうして彼は、パリのガイドやツアー添乗員から個人的にも信頼を得るようになり、ガイドで彼を知らぬ者はいなくなった。
やがて彼は30歳そこそこにして、暖簾分けの形で自分の店を持つ。独立してから、なお一層商売に励み、40代半ばにしてパリに店を3店舗、その後、ガイドを派遣する会社、ツアー用のバスや車の手配会社などを次々に起業して成功を収めた。

サントノーレ近くのメゾンを購入して家族と住み、愛人も囲うようになった。

そして長年の夢であった大型クルーザーを購入してニースに停泊させるという念願を叶えた。

ニースには、褐色の肌で高級ブランドのリゾートウェアを絡い、助手席に娘ほどの美女を乗せたオープンカーで通りを流す親爺連中が大勢いたし、ビーチには、それぞれがパリから連れてきた若いモデルの男の子たちにビーチバレーをさせて眺めている叔母さま達もいる。

ジャンルイは、自分もこのミリオネア・富裕層の仲間入りをしたのだという自負で得意満面であった。

大型クルーザーを維持するのも、ニースの港に停泊させるのにも大金が必要であったが、その金を稼ぐために嬉々として働いた。

ある夏、愛人連れでクルーザーに遊びに来たジャンルイは、港に泊めた船からニースの町並みを我が物にした気分で眺めていた。

気が付くと、20代そこそこの一人の若者がジャンルイのクルーザーを見上げていた。

彼は若者に優しく言った「一生懸命に働く事だ。そうすれば君もこのようなクルーザーを手に入れる事ができるかもしれない。運が良ければね」と。

若者は無表情で、ジャンルイがこの港に来る以前からずっと隣に停泊している様子の、ジャンルイのクルーザーの2倍はありそうな豪華クルーザーに乗り込んだ。
ジャンルイは「なんだ隣のクルーか」と独り言ちた。
が、その若者がデッキのソファーに座るとクルーがカクテルを手渡した。

若者はカクテルを手に、隣に泊まっているこの若者からすれば慎ましやかなクルーザーに立ち、こちらを見ているジャンルイを相変わらずの無表情で眺めた。

それは、何代にも渡って生まれてこのかた死ぬまで働くということを知らない人間の表情だった。

ジャンルイはこのとき初めてニースの本当の怖さを知った。

ひとりの人間の才能や野望、はたまた幸運といったもので一代の人生で到底築けるものではない〝富〟というものが存在するという怖さを。

モナコの住人は、比較的最近ここ1世紀中に裕福になった富裕層が多いように感じるが、ニース・カンヌは筋金入りのエピキュリアン達の楽園であった。

ここでいうエピキュリアン「享楽主義者」とは、日本のその辺りのケチな小金持ちの噺ではない。

私が取材でニースを訪れた際も、停泊するクルーザーの大きさに驚いていると、コーディネーターが「もっと面白いところに案内するよ」と言って、我々をニースの町並みから少し離れた港に案内した。

そこには豪華客船が3隻停泊していた。日本郵船の〝飛鳥〟や〝にっぽん丸〟のような大型客船だ。しかし、乗船客が乗り込むような施設が見当たらない。

コーディネーター曰く「これらの客船は、アラブの王様が年に数回航行させてパーティをするためだけに停泊している。招待客はヘリコプターで乗船し、ヘリコプターで去っていく。この客船を維持するために常時・臨時含め述べ50人以上が雇われている」らしい。

こうなると、驚きも呆れもしない、唯々ボー然と眺めるだけであった。

一度も働く事がなく一生を終えることが、決して幸せな人生ではないことも私たちは知っている。

しかし、世界には底抜けの富があるというのを初めて知った。知ったからと言って羨ましいという感情が湧いてくることもなかった。ただ、表現が間違っているかもしれぬが〝気の毒に〟と感じてしまうほどの富というものの存在は意外であった。

この時私が悟ったことは、世界には日本にいるだけでは想像もつかない尺度があること、その尺度の中で自分がどの位置にあるかを良く知り、悲観することも、また、無理に背伸びをすることもなく、自分の人生にとって必要不可欠なものを正しく選ぶ目を持つ事が幸せにつながり、豊かなる人生を送るコツであるという事だ。

その日、ニースからモナコの宿に戻る海岸線から、ごくごく普通のヨットが、白い帆を立て海面を滑っているのを眺めた。
それが、豪華客船や大型クルーザーよりも、とても知的で美しいと感じたのは私だけではあるまい。

 

編緝子_秋山徹