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令和三年 小寒

2021年1月5日

ショービジネスに生きる

続・今宵も地下のスコッチバンクで

小寒

小寒—寒の入りである。
疫病も大暴れしている。

無事に新年を迎えたという意味の季語に去年今年(こぞことし)がある。
月の満ち欠けが基準の旧暦では大晦日は新月の暗闇である。
この大きな結界を無事に越えたという安堵感が去年今年という季語には現われている。
これで無事歳神様をお迎えし、お送りすると松の内が開け今年一年が安泰であるとされる。

一月六日の夜には翌七日の七種(ななくさ)の節句で供する〝芹・薺・五形・はこべら・仏の座・菘・清白〟の七草の若菜を、神棚の前で刻むのであるが、この時には「七草は唐土の鳥と日本の鳥とあわせてストトントン/地方によって歌詞が違う」と歌いながらトントン叩くように刻む。
これを〝七草たたき〟、七草のうちの薺(なずな)の名をとって〝薺うつ〟〝薺囃(はや)す〟と呼ぶ。

この風習が続いているのは、日本では古より〝言葉〟と〝音〟には呪力があると信じられていたからであり、この文化は中国にはあまり見られないようである。

言葉の力〝言霊〟は、人の口から発せられると他の人を勇気づけ幸せにしたり、はたまた傷つけて不幸にもする。
己が安易に発した言葉のせいで、知らぬ間に人に恨まれたり憎まれていたりすることもある。
生きている人の憎しみや怨念〝生霊〟というものは死者のそれよりもずっと怖ろしい。

音の力を紡いだ〝音楽〟もまた人の情感に大きな影響を与える。

去年今年、年を越すことのできなかった音楽家に作曲家の〝筒美京平(10月7日没/享年80歳)〟同じく作曲家の〝中村泰士(12月20日没/享年81歳)〟作詞家で作家の〝なかにし礼(12月24日没/享年82歳)〟がいる。

各音楽家について私の乏しい音楽的知識ではここで書きようもないので、我が麻布御簞笥町倶樂部HPに『昭和歌謡』を寄稿、現に筒美京平について連載いただいている勝沼さんにお任せするとし、私は〝なかにし礼〟の代表作のひとつ『別れの朝』を歌った〝前野曜子〟について書いてみたい。

今宵も地下のスコッチバンクで

前々回の『大雪』のかつてのVANジャケットの社員の憩いの場としてスタートしたパブレストラン「スコッチバンク」のはなしの続きである。

スコッチバンクは〝音〟の魅力に溢れていた。
音響機材はJBLのスピーカーやオルトフォンのレコード針、ミキサーやシェアーのマイクなど、音響機材の当時の最高級の物が揃っていた。
BGMには最新のビルボードチャート・トップテンの楽曲が流れ、これをDJ小林克也が紹介するというVANオリジナルのオープンリール・テープが二本オフスから毎月届いた。

生演奏もジャズをベースに多種多様のミュージシャンが毎日日替わりで入った。
当時のラインナップで記すと

月曜日/ピアノ弾き語りの「八色賢典」
八色さんは和製フランク・シナトラとして歌手兼映画俳優で東宝からデビューし、多くの映画に出演した後に歌手に専念した人である。

火曜日/ジャズコーラスグループの「クレスト・フォー・シンガーズ」
メインボーカル〝可愛和美〟と男性四人のコーラスグループだが、可愛さんはフジテレビの『ひらけポンキッキ』の初代おねえさん(1973~75年)を務めた人でファンが多かった。

水曜日/これもジャズコーラスグループの「タイム・ファイブ」
こちらは同志社大学の同級生で結成された五人グループでメンバー同士仲が良くいつも和気藹々とした雰囲気であった。

木曜日/コーラスグループ「サーカス」
大ヒット曲『ミスター・サマー・タイム』を出す前後に出演しており、当時誕生したばかりのアルファー・レコードからの新曲発表会もスコッチバンクで行なわれた。『ミスター・サマー・タイム』が大ヒットしてからはスケジュール多忙のため出演がなくなった。

金曜日/「リッキー&960ポンド・ボーカル前野曜子」

土曜日/ピアノ弾き語り「乾信夫」
乾さんは伝説的なジャズピアニストでTBSラジオの『パックイン・ミュージック マジックピアノ』という番組を担当していて人気があった。
しかし、初回の七時からの演奏が始まる時には乾さんはすでにクスリでラリっており1ステージ30分を『エマニエル夫人のテーマ』一曲の弾き語りで終えることが多々あった。
しかし、彼の長年のファン達はそんなステージを愛した。
ステージとステージの合間に、控え室のソファーでラリっているのを「乾さん!ステージの時間ですっ!起きてください」と、ピアノの前まで連れて行くのが大変だったのを覚えている。

日曜日/ギターの弾き語り「鈴木博」
客の少ない日曜日に鈴木さんの艶のあるジャズナンバーをじっくり聴けるのが楽しみで、シフトを日曜日に入れてもらうようにしていた。

この他にイレギュラーで、和製ナット・キング・コールを呼ばれた「デニー白川」、フィリッピンから来日したばかりの「マリーン」、ハワイアンギターの名手「ジミー時田」、ハワイ出身のロックシンガー「来栖アンナ」、ロックシンガーの「葛城ユキ」などが出演していた。
私は直接聴いたことがないが、オープン当初にはジャズピアニストの「世良譲」も出ていたそうだ。

前野陽子とマリコさん

出演者の中で印象的だった中の一人が「前野曜子」である。

この頃、リッキー&960ポンドにはリードボーカル亀渕友香に代わって『別れの朝』をヒットさせた後にペドロ&カプリシャスを抜けた前野が加入していた。
スコッチバンクに出演している間に、映画『蘇る金狼/監督村川透・主演松田優作』の主題歌を歌ってスマッシュヒットを記録し、『野獣死すべし』や『探偵物語』などに女優として出演もしていた。
もともと宝塚歌劇団出身の彼女は、ステージアクションも良く、その歌声はハリがありシャウトの効いたものであった。
酔っていなければ—
そう、酒が入っていなければ良いステージが聴けた。
しかし、その日の第一回、第二回とステージを重ねるにつれ彼女は酔い最終ステージが始まる頃にはベロベロになり酷いステージになることがあった。
店側が、リーダーのリッキーさんを通してきつく注意すると次回のステージではおとなしくしているが、その次にはまた元に戻った。
スタッフには彼女に酒を呑ませないように指示が出たが、彼女は自分で持ち込んだボトルをどこかで隠れて呑んだ。

また彼女は男が好きだった。
特に可愛い顔をした若い男が好きで、アルバイトのウェイターが何人か喰われた。
ありがたいことに私は彼女の好みから外れていた。
ウェイターを喰われる分には構わないのだが、そのうちウェイターが彼女と顔をあわせるのを嫌い辞めてしまうことがあり、これには困った。

そして黒人男性も好きだった。
惚れた男を追いかけて突然ロサンゼルスに行ってしまいステージに穴を開けたこともあった。
その都度リッキーさんは頭を抱えていた。

そんなことが何度も繰り返されるうちにリッキー&960ポンドがブッキングされることは少なくなり、やがて出演者のラインナップから消えてしまった。

出演しなくなって数年が経った1988年、40歳の若さで前野曜子は心不全で亡くなった。
アルコール依存症が酷くなった結果だった。

東京銀座で生まれ育った少女は宝塚歌劇団でデビューしてタカラジェンヌとなり、退団するとすぐに『別れの朝』という大ヒットを飛ばした。
順風満帆の芸能生活を送っていた彼女の人生のどこに落とし穴があったのか。
有り余る才能の裏に潜んでいた闇の正体がなんだったのかは計り知れない。

勿体無いな、と思うのは特別な才を持たぬ凡人の私の感想である。
輝かしいスポットライトを浴びたことのある人間にしかわからぬ苦悩、心のバランスを失わせる魔物がライトの中に潜むものなのか。

前野曜子には後日談がある。
飲食業から出版関係の編集へと転職した私は、縁あってタイのバンコクに取材に行く機会が多くあった。
ここバンコクでも様々な人と出会ったが、その中に〝マリコさん〟がいる。

マリコさんは、元SKD/松竹ダンシングチームのメインダンサーで、SKD解散後は日本各地のショーに出演していたが、ベトナム戦争に従軍している兵士の慰問の仕事を依頼されて、ベトナムの戦地・最前線でダンスショーを公演していたという経歴を持つ女性だった。
サイゴン陥落の際は命からがら一番最後に脱出したという経験もしていた。
サイゴン脱出後はダンサーを引退してバンコクに腰を落ち着けて、私がお会いした時は日本料理の居酒屋をやっていらした。
マリコさんには逸話が多く、宮崎学が『マリコ』という本を出版し、マリコさんの半生が鳳蘭主演でミュージカル化もされた。
いずれマリコさんの逸話について、ここでご紹介したいと思う。

何度かお会いしているうちに、前野曜子がこのマリコさんの姪っ子であることがわかった。
マリコさんの舞台終わり、前野曜子のステージ終わりに待ち合わせして、良く夜遊びをしたそうである。
臨終の席にも立ち会ったということであった。

マリコさんも前野陽子も、ショービジネスという特殊な世界に棲み、人とは大きく違う人生を送った。
それが幸せだったのかどうか。
多分、本人達は「それ以外の人生、生き方はなかったのよ」と云うだろう。

三年ほど前にマリコさんはバンコクを引き上げて日本に戻ったと聞いた。
80歳をとうに越した彼女が、お元気でお過ごしかどうかはわからない。

編緝子_秋山徹