令和三年 処暑
女尿譚
紅に妖しい旱星
西東三鬼
処暑_暑気が処(よこた)わる時候である。暑さが留めを刺そうという時に、異常な雨雲が西日本を覆っている。
旱星(ひでりぼし)は蠍座の中央にあって、夏の夜空に赤く妖しく光る星である。
赤い顔をしているので酒酔(さけよい)星、あるいは赤星(あかぼし)とも呼ばれる。
この星は豊年の瑞兆とされるので豊年星の異名もある。
この星が赤く輝くほどその年は豊作とされる。
旱星は晩夏の季語となっているが、その赤色の艶かしさゆえか西東三鬼(さいとう さんき)に「女立たせて ゆまるや赤き 旱星」という句がある。
この句の解釈にはふた通りあり、旱星が赤い光を放つ夏の夜、女を隣に立たせて放尿する私、と、立ったまま放尿するのは女、という二つである。
どちらも倒錯的なエロチシズムを感じさせるが、放尿するのが私であれば露出性のマゾヒステック、女に放尿させるのであればサディステックな趣を持つ。
西東三鬼は、もともと歯科医師であったのが、馴染みの患者の勧めで三十代で俳句を始め、それが終いには歯医者を辞めて俳人となったという、なかなか変わった経歴の持ち主である。俳号の三鬼は英語のサンキューから取ったとされる。
三鬼は、生涯に多くの女性と関係を持ち、30年間(昭和8年~37年)三鬼と同棲し、その最期を看取った堀田きく枝によれば、同棲の間に少なくとも35名の女性と交渉があったという。
三鬼の句には、海水浴に行った際に娘たちの水着姿に欲情して詠ったという「おそるべき君等の乳房夏来る」など親爺の助平心をストレートに詠ったものや、散文に以下のような記述もみられる。
『女靴下の話』
外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろつている ――中略—— その真相は今もつて判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。
『美女』
私といふ男は、齢五十をとうに過ぎてゐながら、私と同じ生きものである人間、特に女の人に対する抵抗力が実に弱く、まるで生れたての赤ん坊がたやすく風邪をひくやうに、やられてしまふのです。
『女靴下の話』『美女』共に「西東三鬼読本(俳句臨時増刊号)」角川書店
この部類の女好きの三鬼が「女立たせて」と詠えば、その解釈はやはり女に立ったまま放尿させるというのが正しいだろう。
と、ここでひとつ気になるのが現代で見ることのもちろんない、また、聞くことのない女性の立ったままの放尿というのは、かつての日本ではどの程度行なわれていたのであろうかだ。(もちろん日常的な習慣としてあったわけでは無かろうが——)
江戸風俗の本などやインターネットで調べてみたが、はっきりと分からなかった。
ただ、西東三鬼の句と並んで度々みられたのが、女流俳人の山崎愛子の句「立ち尿(いば)る老女の如く恋こがる」である。これは、ある婦人の立ち放尿を何度か目撃した女性がほのかな想いを抱いたものを詠んだと解釈されている。「立ち尿る」と女性の立ち放尿を詠んでいることから、女の立ち放尿が三鬼の全くの創造・願望でないのは想像できた。
作家と女尿
文芸作品を探すと、太宰治『斜陽』の冒頭部分に次の記述があった。
「いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、—略—、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、「おしっこよ」とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。」
太宰の『斜陽』は、ずいぶんむかしの高校生の頃に読んだ記憶があり、この「おしっこ」の部分を不思議に思っていれば、ずっと覚えているはずであるが、忘れていたというのは、その当時も今同様にボーッと読んでいたに違いない。
この上流階級の婦人である〝お母さま〟が立ち放尿をしているというのであるから、下々の一般市民の女性の中ではある程度習慣化されたものであったろうと結論付け、『斜陽』により一定の解決とした。
ついでに倒錯的なエロチシズムを文芸作品の中に展開するに長ける大家はどうかと、谷崎潤一郎の作品を探した。
尿に関しては、さすがに御大谷崎である。放尿どころか飲尿に至る。
谷崎初期の作品『少年』の結び前の一節が下記である。
「次第に光子は増長して三人を奴隷の如く追い使い、湯上りの爪を切らせたり、鼻の穴の掃除を命じたり、Urineを飲ませたり、始終私達を側へ侍らせて、長く此の国の女王となった。」【Urine=尿】
また『痴人の愛』には主人公譲治のナオミに対するマゾヒスティックな愛欲の願望が満ち満ちていて、
「甘い、かすかな、訴えるようなその声の意味が私に分ると、私は無言で彼女の体を両手の中へ包みました。がぶりと一滴、潮水を呑んだ時のような、激しい強い唇を味わいながら、……」
という飲尿の願望を想起させる記述がある。
スカトロジー(糞尿愛好症)、スクビズム(下位願望)を文学にまで昇華させてしまうのは流石に谷崎である。
しかし、谷崎はそれを直接的には記述せず〝Urine〟や〝潮水〟といった表現に留めている。
なんだか旱星の妖しい艶かしさに惑わされて尾籠な話に終始してしまった。
今の私の身であれば、「いばり(尿)せし蒲団干したり須磨の里」と、年老いて夜尿の粗相をしてしまい干された布団を呆然と眺めている蕪村に親近感を抱いているのが、甚だ嘆かわしく悲しい。
先祖の霊を敬うお盆の時期につらつらと女性の放尿に始まり不埒な想いを巡らせたというのも不敬な話であった。