令和三年 秋分
うかうかと
彼岸の夜に
うかうかと 人に生まれて 秋の暮れ
秋分_涼しさがやってきて、虫の音が夜半の闇に鳴る彼岸となった。
かすかに夏の残り香りが漂う暗がりから満月を眺める。
夏のもりもりとした心持ちが、初秋を迎えて感傷的で些かメランコリックな想いとなり、気取って物憂げな面持ちを作ってみたりするのもこの季節ながらか。
したり顔の私の頭の中を一茶の一句が巡っている。
「うかうかと 人に生まれて 秋の暮れ」
まあ九月の下旬であるから季節は〝秋の暮〟ではないのだが、齢を重ね還暦を過ぎてしまったこの身は、人生の秋の暮に近かろう。
この句が頭から離れないのは、人として生まれ落ちてはきたが〝うかうかと〟未だ何も成し遂げていないという自戒の念と、〝うかうか=ぼんやり〟していると人生の秋の暮れを迎えているお前の残りの時間は長くない(終わってしまう)のだぞという焦燥感が、この身を襲うからである。
人は前を向いて生きるべきだとは思うが、人生の秋の暮ともなると後ろを振り返えることも必要となるだろう。
おのれの人生を振り返えってみれば、なんと失敗のみ多かりきと嘆くばかりであるが、後悔はしていないことが救いか。
後ろを振り返ってみれば、おのれの人生のスタイル、生き方や考え方の転機となった場面がいくつか思い出されてくる。
エピキュリアン(epicurean)達の宴
これは私が世界の一端のそのまた欠片を覗き見て、おのれの身の丈を知ったという話である。
世紀が変わって直ぐの頃、イタリア・ジェノバからモナコ公国、南仏ニース、カンヌに至る「リビエラ街道」を取材した。
まずはF1モナコ・グランプリのコースで有名なヘアピンカーブを撮影した。
サーキット場ではなくモンテカルロの一般道を駆け抜けるモナコグランプリはF1レースの中でも特に人気のある一戦である。
グランプリ開催時には宿泊費が百万単位にまで跳ね上がるというヘアピンカーブを目の前に臨むホテルの一室を特別に借りて、ベランダからの撮影となった。
我々は撮影の最中に、このヘアピンカーブにふさわしい車が登場することを祈りながら準備をしていた。
と、まさにその時、カメラをセッティングし終わるかどうかというタイミングで真っ赤なフェラーリが爆音とともに現われ、あっという間に疾り去ってしまった。
あまりの突然の登場にカメラマンは絶好のシャッターチャンスを逃してしまった。
落胆する我々に、ホテルの広報は「大丈夫ですよ」と笑顔を投げかけた。
五分後、私たちは彼の笑顔の意味を知る。
ヘアピンカーブには、ポルシェやベンツのガブリオーレが次々に現われ、それらに続いて先ほどとは別の真っ赤なフェラーリが登場した。
充分な撮れ高で私たちはホテルを後にしたが、モナコにおいてフェラーリはスーパーカーではなく一般車両なのであると知った。
この時から私はこの街に微かな違和感を感じ始めていた。
〝大きな街〟といっても差し支えなさそうな「モナコ公国」は、バチカン市国に次いで世界で二番目に小さな国である。首都も持たないこの小さな国は一年を通して温暖な気候で、なにより所得税が無く、タックスヘブンゆえに世界の富裕層がこぞって暮らし、人口の30%以上がミリオネアであるという。
この国に居住するための市民権を得るのは生半ではなく、信用のおける地位と、莫大な資産を所有している証明が必要とされる。故に当たり前のごとく世界で最も物価が高い。
F1コースの次に我々が向かったのは、アラン・デュカスが最年少で三つ星を獲得したレストラン「ルイ・キャーンズ(Louis XV)」。
このレストランを一階に構えるホテル「ロテル・ドゥ・パリ(L’Hotel de Paris)」に事前許可を得て、開店前にヴェルサイユ宮殿を模した絢爛豪華な内装を撮影し、支配人に簡単なインタビューの時間をもらった。
そして、その夜は実際にディナーを予約し料理を体験した。
このレストランは、1組のゲストに対し、3時間から4時間以上たっぷり時間をかけて完璧にもてなすため、一夜に予約できるゲストの数は限られている。
その夜、私たちがオーダーしたのは「ヴェジタリアン風のコース」南仏の野菜をふんだんに使い、オリーブオイルとバルサミコ酢が使われたシンプルだが滋味豊かな料理を堪能した。〈下がその時のコースメニュー〉
グラスシャンパンで乾杯をし、ワインは奮発してオーパス・ワンを頼んだが、流石に当たり年のものは避け1989年にした。(現在の小売価格を調べたら約11万円であった。これを今ルイ・キャーンズで頼んだら一体いくらするのか考えただけでゾッとする)
コースのメイン料理を食べ終えたところでパンパンの満腹であったが、そのあとのデザートの豊富さといったらなかった。ケーキ類、焼き菓子、幾多のマカロン、デザートワインが次々と運ばれてくるが、とてもではないが私の胃に隙間はなかった。まさに〝おたべ地獄〟である
返す返す惜しかったと思うのは貧乏人の性である。
給仕のサービスは押し付けがましくも堅苦しくもなく、こちらが必要とするときにさっと現れて、サーブをした後は目立たぬよう後方に立ってその気配を消すという申し分ないものだった。
会計は版元の会長が済ませたが、この金額ばかりは怖くて聞けなかった。取材経費でルイ・キャーンズのディナーをいただく—編集者にとって良き時代であった。
期待以上の料理とサービスの提供を受けた私たちは、ホテルまでの径を潮風を肌に感じながらそぞろ歩いた。
しかし、ルイ・キャーンズから徒歩で出たゲストは私たちだけであったと想う。
夜が更けても、いや、夜が更けたからこそだろうかロールスロイスやベントレーといった最高級車がカジノ辺りを行き来する。
オーパスワンの酔いの残る頭で、ここはミッキーマウスもドナルドダックもいない金持ち達のディスニーランドだと痛感した。
確かに、モナコグランプリは見応えがあるだろうし、また行けるものならルイ・キャーンズのディナーも魅力的だと想う、瀟洒な造りのカジノもある。しかし、これら全てに現実感が無いのも確かだった。
でも万が一、将来私が金満家になったとしても、此処には住まないだろう、棲家としたくないと感じた。
建物はディズニーランドのようにハリボテではないが、如何せん歴史と文化の重みがない。
浮遊して漂い、今にも消えそうである。
こんなに危うい地べたでは暮らせないと、心と体が拒絶しそうだった。
まあ、心配しなくともモナコに暮らせるほど私が裕福になる可能性はなかったが、悔し紛れではなく此処の住人を羨ましいと想う気持ちは浮かんでこなかった。
モナコを3日ほど取材して、次の取材地はニース・カンヌであった。
ニース・カンヌは、モナコよりもさらに底なしの街であった。
〈次回に続く〉