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令和三年 大暑

2021年7月22日

空蝉

メメントモリ

夏の蝉取り

大暑—半夏生が過ぎ、大いに暑い。

この時期の風である白南風(しろはえ)は、梅雨明けに南東から吹く季節風で梅雨雲を一掃して夏を知らせ、梅雨入りを知らせた黒南風と対になるものである。

昔(いにしえ)より夏の白い雲は、美しいもののひとつとされる。しかし、空が抜けるように青く美しくなったとはいえ、気候の厳しさは変わらない。

熱中症の注意報が飛び交うこの時期、政府〝お上〟の迷走と感染症冷めやらぬ中で、世界的なスポーツ大会が始まるという。

選手や観客の健康被害を考慮して延期されたものが、観客無しで相も変わらず健康被害の最も起きそうなこの季節のこの時期に開催される—選手には本当に気の毒である。

諸事情を鑑みれば、とても今回は間違っても〝祭典〟とは呼べまい。これから、街路樹に多く見られるようになる蝉の抜け殻・空蝉(うつせみ)に似て空虚である。

〝うつせみ〟は、もともと生身のおのれの姿「現せ身」が、魂の抜けた虚(空)しい姿という反対の意味に転じて「空せ身」となり、その空しい姿を象徴するような蝉の抜け殻「空蝉」へと当てる文字が変化したものだという。

何年も地中に生き、地上に出て殻を破り二十日足らずを生きる蝉の抜け殻に無常を感じる日本人の世界観が「空蝉」には宿る。

子供の頃、夏になると友達と連れ立って森や林に昆虫を採りに行った。といっても昆虫を採るのが下手糞な私は、採るのはすべて友達に任せっ放しにしていた。

友達の中には、虫を採るのがやたらに上手な子がいた。こういう子は、蝉やカブトムシ、クワガタ、カマキリ、蝶々、トンボなんでもうまい。

「あっ、あそこで蝉が鳴いている」と言うやいなや、私が「えっ、どこどこ」と言ってる間にトリモチのついた棒を素早く伸ばし、いつの間にか蝉はトリモチにくっ付いて〝ジッ、ジッ〟と鳴いている。私は見事な彼の一連の動作をボーッと口を開けて眺めるのみである。

彼らには、昆虫がどこにいるか本能でわかるらしく、蝉のように鳴いて場所を知らせるわけではないクワガタやカブトムシなどを難なく見つけてしまう。こういう子は、筍や長芋の生えているのを見つけるのも上手い。

学校の教室でリーダシップを執る子と、山野でリーダーシップを執る子が違うのが面白い。災害時やサバイバルで生き抜かなくなった時に頼れるのは、当然、山野でリーダーシップの執れる子の方である。

一向に取れぬ虫取りに飽いた私は、木々に止まった蝉の抜け殻を〝空蝉〟をじっと眺めて暇を潰した。悔し紛れではなく、生きて五月蝿く鳴く蝉よりも、その抜け殻の方が私には興味深かった。薄茶色に透き通った無機質の殻に写る文様は、人工的な機械仕掛けの物体のように想えた。

この殻の形態と、いま木の上で鳴いている蝉の形態の違いが不思議でしょうがなかった。この変態の過程を見てみたいなと思った。

小学生の私の机の引き出しの中には、持ち帰った蝉の抜け殻がいくつか入っていた。ある時、カマキリの卵を見つけて家に持ち帰った。ふわふわとしていて、卵の表面は泡を固めたような手触りがした。引き出しに入れていたのを忘れた頃、この卵が突然孵った。無数の小さな得体の知れない物体が引き出しから溢れ出てくる。

吃驚して「ひえーっ」という大声を出して机から飛び退いた。何事かと飛んできた親父に「バカっ」と拳固をもらった。翌日、孵ったものは紙袋に入れて原っぱにばら撒いてから丁寧に引き出しを掃除したが、その小さなものが完全に居なくなるまでに十日以上かかったと思う。

今思えば、命なき蝉の抜け殻と、生命の塊であるカマキリの卵を同じ場所に入れ、卵が孵り無数の命が抜け殻の上を這い回るというのは、なかなかにシュールな光景であった。

無論、小学生の私の蝉の抜け殻〝空蝉〟に対する興味は、古来の無常観などとは程遠いものではあるが、死を意識したという点では似て非なるものであったと思う。

私たちの子供の頃は、〝死〟というのは結構身近にあった。自宅で死ぬ年寄りは今よりもずっと多く。また、今よりもずっと多くの子供が病気で死んでいた。統計で日本人の平均寿命が延びたのは、長生きの高齢者が増えたこともあるが、医療の発達で子供の死亡率が著しく低くなったことも大きく関わっているという。

今思い出してみると私の廻りでも、友達や同級生が毎年一人は病気や事故で亡くなっていて、年に一度は葬式に参列した覚えがある。もちろん近所の爺さん、婆さん、オジさん、オバさんの葬式を入れればもっとある。

当時、葬儀は自宅から出すことの方が多く、実際、父方の祖父と母方の祖母の葬儀までは、それぞれ自宅で行なった。いつから日本人は葬式を自宅で行なわずに、メモリアルホールなどという葬儀会館で行なうようになったのか。日本人はいつの間にか〝死〟というものを〝非日常〟のものとしてしまった。

私は〝死〟というものは〝日常〟に置いておくべきものだと思っている。現代日本はあまりにも〝死〟を忌み嫌ってはいまいか。

人は須らく必ず死ぬ。世の中で、これのみが絶対的な真理である。

死ぬということを意識しないで、有意義な〝生〟を送ることはできない。子供を死から遠ざけるのではなく、人であれ動物であれ、その死を観るということを体験させておくべきだと思う。それによって〝生〟というものがより理解できて、今この時を、家族を、友人を大切に思えるのではなかろうか。

親族に死に様を見せることは、死にゆく者の大きな役割だと思う。

〝空蝉〟という言葉には、古の人のメメントモリが込められている。
メメントモリmemento mori_ラテン語で〝死を忘るることなかれ〟

編緝子_秋山徹