令和四年 白露
喰い物の噺
至高の無花果
菊の露
白露_東雲の時刻、草木に朝露が降りる時候。
九月九日の「重陽」では、菊の葉に降りた露を集めて飲んだり、酒に菊の花びらを浮かべて呑んだりして、長寿を願う節句であった。
その昔、中国で、〝慈童〟という人が九月九日に菊の露を呑んで不老不死となり、八百年を生きたという逸話から始まったものだが、このご時世、八百年も生かされるというのは拷問としか思えない。
この白露の頃に旬となるのがイチジクである。実の中に白い花が咲くため、花が咲かぬように見えて〝無花果〟という漢字が宛てられる。
小学生の頃、学校までの道々にイチジクの木が何本か植えられていた_もちろん他人様の庭であるが、枝が塀から道に出ているものが数本。
うまい具合に、夏休み明けの九月初旬にイチジクは食べ頃となる。イチジクが一等旨い食べ頃というのは本当に短く、実の開いた部分が紫がかってやや腐りかけ酸味のあるものが一番で、完熟してしまっては遅い。
小学校帰りの道すがら、この一番の食べ頃のイチジクを枝からもぎ取る頃合い・タイミングが最も肝心で、この前後の日々には軽い緊張感がある_大げさなと言うなかれ、田舎の小学生にとっては、一年に数日しかない大切な年中行事なのである。
時には、こらぁーとイチジクを勝手に拝借した家のオジさんに追いかけられる、というアトラクションも付いてくる。イチジクが終われば次は柿であるが、これも同じ家であることが多く、オジさんと我らの攻防は続く。
果物屋には、まだ青いものか完熟したものは並ぶが、腐りかけの酸味のあるイチジクが並ぶことは滅多にない。収穫後と枝に付いたままの状態で熟するのは別物である。そんなわけで小学生以降にこの滋味あるイチジクを食べることは、なかなかできなくなった。
この食べ頃に熟れきったイチジクを、小学生から三十年後に思わぬところで再び口にした。それはイタリアはフィレンツェ郊外キャンティにあるリストランテのアンティパスト(前菜)だった。
キャンティのなだらかな丘の上にある野外リストランテは、巨大なテントが客席となっていて、アンティパストはテントの中央のテーブルに並んだ大皿から銘々が自由に取るスタイルだった。
そのテーブルの中央に、あの紫がかったイチジクが山のように盛られ、その隣にはこれまたヨダレの出そうなフリウーリ産のプロシュート(生ハム)、サンダニエーレが惜しげも無く並べられていた。
思わず、イチジクを5個取り、その上にサンダニエーレをイチジクが隠れるほどのせた。アンティパスト用の皿には不恰好な分量のイチジクとサンダニエーレが乗っかっている。行儀が悪いのは百も承知である。
案の定、同席の連れはみな〝えっ!〟という顔をして、詰(なじ)るような笑いを私に投げかけていたが、私はかまわず生ハム・イチジク(Prosciutto e Figura)に食らいついた。私の期待通り、そのイチジクは九州の田舎で小学生の私が食べていた、ちょっぴり酸味のきいたイチジクの味そのものであった。今回はさらにサンダニエーレという素晴らしく旨い生ハムの上品な塩けが、イチジクの甘みを存分に引き出している。
ああー官能的だー、などと訳の分からぬことを呟きながら、私は一心不乱に、プロシュートでイチジクを巻きながら掻き込みつつキャンティワインを流し込んだ。
注文したパスタを早々にキャンセルして、メインの前にもう一皿食べた。完全なマナー違反であろうが、旬のうまい喰い物と古道具はその場で手に入れないと二度と巡り合わない。
この時から二十年近くが経つが、終ぞ同じほどに熟して滋味のあるイチジクにはイタリアでもお目にかかれなかった。
たかがイチジクであるが、されどイチジクである。至高の喰い物に出会った瞬間の悦びは、強烈に脳裏に刻まれるもののひとつであろう。
これとは別に、秋真っ只中のキャンティでは採れたてのポルチーニのフリットというイチジクに劣らぬ衝撃の出会いもあった。日本と同じくらい、「至高の喰い物」に出会える機会を与えてくれるところが、イタリアを愛する理由である。
至高のイチジクに出会ったこの時の連れの女性は、はて?、だれであったか。
〝へっ!、これだけ!〟
もうひとつ、イタリアでの忘れ得ぬ喰い物の話をしよう。
この経験は、フィレンツェからぐっと南に下ったナポリ近郊でのことである。カンパーニャ州ナポリ地方もまたイタリア有数の〝お食べ地獄〟の地である。なにせ、フィレンツェのサルト(仕立て屋)でスーツの採寸をして、ナポリ地方を廻って十日後の仮縫いでフィレンツェに再び戻った際、メジャーを持った職人に体型が変わっていると大いに怒られた。お食べ地獄で5kgほどは太っていたのではあるまいか。
いく日か雑誌の取材でナポリやカプリ島、イスキア島、アマルフィ、ポジターノ、ポンペイを廻りヘトヘトに疲れてしまった私たちは、現地カメラマンの勧めで、ナポリ市内からローマ方面に車で一時間ほど走ったネローネという小さな入江に向かった。その場所は、かつてローマ皇帝ネロが温泉保養に訪れていたという場所で、皇帝の名を冠してネローネとなったという。
ネローネには、日本の熱海のように海から温泉が湧いていて、海沿いの岩場には天然のスチームサウナがあった。水着でサウナで汗をかいたら、そのまま海に飛び込んでクールダウンする。入江の脇には、海中に四、五人が入れる大きな木樽があって、そこに温泉が引き込まれている_海の中の露天風呂である。
日本同様火山国であるイタリアには、温泉保養地が国中に散在していて、ローマの古代遺跡フォロ・ロマーノやポンペイ遺跡にも温泉を利用した温浴施設がある。フェリーニの『8 1/2』もトスカーナの温泉地が舞台である。
海中露天風呂にゆったりと浸かりながら、景色を眺めれば遥か向こうにヴェスビオ火山を望む。入江のすぐ外では、イカ釣り漁船が日本と同じように、船上で明かりを灯して漁をしていた。
すっかり疲れが取れた我々は、カメラマンに感謝しながらこの施設を運営しているホテルのリストランテに向かった。
リストランテは、ホテルとは別棟の離れた入江の先端にあった。景色は素晴らしかったが、台風や大波が来たらどうするのだろうという、余計な心配をしていたら、カメリエーレ(給仕)は、入江の構造からか大昔からこの場所が大波の被害を受けたことはないのだ、と微笑んだ。
さて、ここで忘れ得ぬ料理の登場である。
やはりここでもアンティパストであった。
その皿には、クラッシュアイスの上にトゲ付きの殻を真っ二つにしたウニが四つと小さなスプーン、ハーフカットのレモンがのっているだけである。
〝へっ!、これだけ!〟と思った。
カメリエーレは、スプーンで殻の中のウニをすくって、レモンを絞りながら喰え、と手振りで促す。
言われるまま、スプーンでウニをすくってレモンを絞り口に入れた。
〝ああー〟、善(よ)がるような声が思わず出た。日本よりも小ぶりで濃いオレンジ色をしたナポリのウニは濃厚で、脳の裏側を痺れさせるようにうまい。
この料理には最高だとカメリエーレが薦めたベネト州のスパーリングワイン〝プロセッコ〟がまた合う。濃厚なウニの後味を発泡酒が洗い、口の中をリフレッシュさせる。
そしてまた、ウニをひとすくい。さらにプロセッコ。この繰り返しが、私たちを無言にした。イタリア人も日本人も、たまに顔を見合わせて〝うへへ〟とニタニタするだけである。
そう、お気付きのように、和食、寿司屋とほとんど変わらぬ風景である。日本酒がプロセッコに変わっただけである。極上のウニと旨い酒があれば、他には何も要らぬ。余計な仕事をしないことが最高に美味しい料理なのだと、極上の素材を知る料理人が提供する一皿。
ああ、イタリアの喰い物は信用できるなとこの時想った。
そのあとの、イカ墨のパスタ、白身魚のオーブン焼きも、余計な手を加えずシンプルで、極上の素材の旨味と滋味を引き出した料理であった。
この前日の昼にポジターノのピッツェリアで出てきたチーズも秀逸であった。手のひらに乗るほどの小さな藁の籠に入ったカッテージチーズに、粗挽きのブラックペッパーと蜂蜜をかけてスプーンで食べた味に、思わずピッツァを忘れるところだった。これは少し甘みのある白ワインによくあった。
思えば、イチジクとプロシュートと言い、ポルチーニ茸のフリット、殻ごとのウニ、藁包のチーズと言い、脳裏に刻まれるのは、ごくごくシンプルな素材と旨いワインの組み合わせである。
極上の旬の素材の味に敵うものはなく、料理人はその邪魔をせぬようにすることである。
食の大家〝北大路魯山人〟が「うまいものの極致は米なのである。うまいからこそ毎日食べていられるわけなのである。料理人は飯の炊き方に注意しなければならない。わたしは断言する。飯の炊けない料理人は一流の料理人ではない。」(『旨いものが食いたくなる本』)と言うように、〝いろはのい〟以上のものはないということか。
老い先短い身なれば「不味いものを食っている暇はない」