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令和四年 立秋

2022年8月7日

必殺 英語もどき

スーパー・ブロークン・イングリッシュ

交差する新暦と旧暦

立秋_暦の上で季節は秋となり、この日以降に送る時候の挨拶文は残暑見舞いとなる。

御中元は、その送る期間が一般的には七月の初旬から七月十五日までとされているが、元々、〝中元〟とは旧暦の七月十五日に行なわれていた道教の〝贖罪の日〟のことである。
仏教の盂蘭盆会と同日のため混同され、新暦となってからは盂蘭盆会同様、東日本(特に関東)では旧暦通り七月十五日、西日本(特に関西)では新暦の八月十五日に行われるが、地方によっては旧暦に中元、新暦で盂蘭盆会、またはその逆であるところもある。

仙台や長野では乞巧奠(七夕)が新暦の八月七日に開催されるように、どうもこの夏の時期には、古くからの年中行事が行なわれる日が旧暦・新暦で交差することが多い。

中元に日頃お世話になっている人や企業に品物を送るようになったのは、〝お歳暮〟同様、百貨店の販売戦略によるところが大のようである。

さて、今回は前回のコラムで予告したように、私は何故英語を話せないのか、英会話が苦手なのかを、つらつらと考えてみたい。特段、語学的に解明するとかいう類のものではなく、至って個人的な感想、回顧であるので、その辺はご了承いただきたい。

イタリア万歳

これまでの私の人生で、全く英語を話さずに過ごしてきたかというと、豈図(あにはか)らんや、少なからず海外関係の仕事をさせてもらったので、海外で〝英語もどき〟を随分使ってきた。

三十年近く、フリーで時には組織に所属して〝編集プロダクション〟のような仕事をやってきたが、編集関係の仕事だけでは十分な収入を得られない時期が続き、並行してフランスはパリとイタリア・フィレンツェの土産物屋の日本事務所をやった。

海外旅行に団体ツアーを利用したことがある方ならご存知だろうが、その旅程の途中では必ず土産物屋(免税店)に寄る。日本人の店員がいて現地のブランド品などを免税価格でしかも日本語で買い物ができることや、トイレ事情の悪い海外で安心してトイレ休憩ができる利点があるのが土産物屋である。

しかし、安いツアーになればなるほど、この土産物屋に寄る回数が増え、美術館・名勝名跡を訪ねているのか土産物屋巡りをしているのか分からないような酷いツアーもあった。

これら土産物屋の日本事務所の役割は、ツアー客が購入した商品の不具合や返品、その他の問い合わせ窓口と旅行会社への営業(客引き)が主なものである。

〝海外旅行と土産物屋〟に関するカラクリは、いずれ別の機会に詳しくお話ししたいと思う。

営業が苦手な私がこの日本事務所をやって良かったのは、大好きなイタリアそれもフィレンツエに少なくとも年2回〝仕事で行かなくてはならない〟状況になったことである。これが有り難くてしょうがなかった。

そもそもイタリアに興味を持ったのはファッションからだった。当時住んでいたマンションの近くでイタリアン・ファッションのセレクトショップを経営していた人と仲良くなり、彼の現地仕入れ、フィレンツェで夏と冬の2回開催される世界的なメンズファッションの展示会「ピッティ・コレクション」に、のこのことくっ付いて行ったのが、イタリアを訪れた最初だった。

ああ、このイタリア、特にフィレンツェにこれから何度も来たいなと思った。できれば仕事がらみで来られれば最高だと思った。それがひょんなことで、友人の関係者からまずパリの免税店、またその免税店のスタッフからの縁で運良くフィレンツェの免税店を紹介され、喜んで(内心小躍りして)日本事務所を引き受けた。

たったひとつの懸念事項・不安材料は、英語が話せないということだった。もちろん、イタリア語もフランス語も一切話せず、英語同様、どうにか挨拶と数字がわかる程度だった。

ブロークン・イングリッシュ天国

幸いにして、大部分の仕事のやり取りは現地日本人スタッフと日本語で行なうものであったので、大きな不都合はなかった—当初は。しかし、4月と9月の契約更新期には両店のオーナーが旅行会社の担当者への挨拶回りに現地から来日してくる。彼らは、2週間ほどをかけて、日本各地にある旅行会社(JTB、近畿日本ツーリスト、日本旅行などなど)の本店・支店を巡る。この挨拶回りの際にフルアテンドするのが私の役目である。これには最初の頃本当に難儀した。

当然二人との会話は、英語〝もどき〟である。それまで1対1で外国人と話をしたことも、行動を共にしたことのない私が、乏しい語彙をフル稼働させどうにかごまかし、毎夜寝ながらうなされるような日々を過ごした。と、幾日かが経って、あれっと気がついた。なんとなくいけとるぞ。よくよく聴いていると、イタリア人もフランス人オーナーも私ほどではないが、ネイティブとは程遠いブロークン・イングリッシュである。

ブロークンではあるが、彼らは臆することなく旅行会社の担当と会話する。旅行会社の担当者の英語も怪しいものであるが、彼らもかまわず会話している。(大手の旅行会社の海外旅行担当といえども、流暢に英語を話す人間は少ない)はじめは、オーナーとの会話にしか英語を話さなかった私も、恐る恐る担当者の交わる会話に参加し始めた。そのうち、根が厚かましくできている私は臆することなく会話できるようになった。

ここで勘違いされては困るのだが、私の英語が劇的に進歩したわけではない。会話のレベルは、相も変わらずスーパー・ブロークン・イングリッシュのままである。会話の内容といっても「次行くか」「疲れたか」「休むか」「食事するか」「寝るか」程度であるし、旅行会社では旅行業界の専門用語を英語で覚え、契約の金額はイタリア語、フランス語で言えれば、なんとかなるのである。

ただ私が、否応なく欧州の外国人と常に対峙しなければならない毎日を過ごすことで、英語に対する恐怖心が消え、
良い意味で〝舐めてかかる〟ことができるようになったのである。

二人の人間がいて、互いに意思の疎通を図ろうとした時に、英語という共通の道具・ツールがあった時に、各々が身につけている道具のレベルが違ったとしても、ある程度通じるものだと、頭でなく体で理解した。

初老のフランス人オーナーは、コルシカ島出身で英語の発音の訛りもきつく、年取っているせいか偏屈なところがあり、性格的にお互いにそりが合わず2年ほどでパリの免税店との仕事は辞めた。

一方、イタリア人オーナーの方は、お互いに歳も近く、ウマもあったので都合20年近く日本事務所を務めた。今でも互いに友人だと思っているが、二人の会話で私が話すのは相も変わらずスーパー・ブロークン・イングリッシュのままである。

イタリア語ははっきりした発音なので、日本人にとって、イタリア人の話す英語が聴き取りやすいことも、彼との関係を長く続けられた要因でもある。

また、イタリアの免税店の日本事務所をやったおかげで、編集の仕事の部分でも大いに幅が広がった。免税店での仕事が長くなるにつれ、現地に住むイタリア語が堪能な日本人、日本語を話せるイタリア人と知り合うことができ、彼らのツテとコネで雑誌の取材やテレビ撮影のコーディネイトができるようになった。日本と同様、いやそれ以上にイタリアではツテ・コネがとても大事である。普段、取材や撮影のできない場所でもツテがあれば可能になってくる。

このツテとコネの集大成で完成した番組がある。『中田英寿の真実』という番組で、当時、世界最高のサッカーリーグと言われたセリエAの中堅チーム「ペルージャ」にいた中田英寿について、セリエA関係者に忖度なしの評価を聞くという内容で、ヴェネツィアからトリノ(ユヴェントス)、ミラノ(ACミラン・インテル)、パルマ、フィレンツェ(フィオレンティーノ)、ペルージャ、ローマ(ACローマ・ラッツォ)とイタリア中を周り、各チームのスター選手にインタビューを敢行した。このほとんどを私達のチームでコーディネイトし、インタビュアーもわれらのチームの一員であった。
日本の大手のテレビ局が正攻法で取材申し込みをしても、短期間で一度にインタビューをすることは無理である。これこそツテとコネを総動員して初めて為せる技であった。

この撮影には私もディレクター(雑用係のようなものだが)のような立場で同行したが、そこでもコミュニケーションはスーパー・ブロークン・イングリッシュである。

お分かりのように、私はコミュニケーションのツールとして、鈍(なまくら)な〝英語もどき〟を使っていながら、その拙さからイギリスやアメリカなどの英語圏では通じないというパラドックス(矛盾)を抱えている。

私の幸運は、憖(なま)じ英語をネイティブな発音をしてしまうと通じないという世界で、互いが拙い英語で話すことで成り立つ環境に仕事があったこと、早い話が「英語圏での仕事がなかった幸運」に尽きる。

英語も携帯電話と同じく〝たかがツール〟と割り切れば、性能の悪いスーパー・ブロークン・イングリッシュ機種であっても、そこそこ使えるということである。ただし、携帯電話には圏外というものがある。つまりスーパー・ブロークン・イングリッシュ機種はネイティブ圏内つまり英国と米国では繋がらない可能性が非常に高い。
やはり、機種は性能の良いことに越したことはなく、常にヴァージョンアップすることが正しい方法であろうとしみじみ思う。(思うが、私の場合もはや遅い)

以上、終生〝英語もどき〟でごまかした親爺の戯言であった。
次回も、もう少し英語について愚考を重ねたい。

編緝子_秋山徹