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令和四年 清明

2022年4月5日

墨の舞

咲くやこの花

春の女神・佐保姫

清明_草木山川国土が清らかに明るく、浄福を感じる山紫水明の時候となった。

古来、佐保姫は春の女神とされている。

平城京の頃、人は、京の東・佐保山あたりを越えて春はやってくると考えていた。それで、佐保山の神である佐保姫が春を司る女神となった。

これは、秋がやってくる平城京の西方・竜田山の竜田姫と対をなすものである。

佐保姫、竜田姫ともに織物・染色の女神とされて、機織り、紺屋の職人の守護神である。

春に枝垂れ柳の枝が小さな花をつけ、鮮やかな緑色をして放物線を描いているさまを〝柳の糸〟と呼ぶ。

柳の糸を染めて花を咲かせる女神・佐保姫のいでたちは、霞の衣を織ってそれを纏ったものである。

和菓子の世界では、薄衣を纏った姿を模した意匠の生菓子が、春に〝佐保姫〟と銘打って作られる。

また、春の季語として和歌には欠かせぬ〝佐保姫〟である。次の三首にもあるように、佐保姫とともに詠われるものには、霞のうすみと、衣と染め・柳が常である。

「佐保姫の 霞の衣 ぬきをうすみ 花の錦を たちやかさねむ」 ——後鳥羽院

「佐保姫の 染めゆく野べは みどり子の 袖もあらはに 若菜つむらし」——順徳天皇

「佐保姫の 糸染めかくる 青柳を 吹きな乱りそ 春の山嵐」——平兼盛

前回〈春分〉で町春草のことを書いたため、佐保姫—春の女神とくると、春の字面からどうしても春草のことを連想し、頭に浮かんでしまう。

いま、手元に春草の『墨の舞』という本がある。
これを底本として、春草と彼女の育った青山のことを想ってみたい。

町春草の青山

大正十一年に生まれた町春草の実家は、青山六丁目で本屋を営んでいて、煉瓦造りのその建物の三階からは富士山が望めたという。

母方の祖先は、遣隋使の小野妹子につながるという古い家系で、母親は色白で感覚の細やかな人であった。母親の影響からか、春草は美しいものが人一倍好きな好きな少女であったという。

この大正時代から昭和の初めの頃、原宿から青山辺りの一帯は、現在の華やかさが想像もつかないほど寂しい地所だったらしい。

江戸時代、原宿は文字通り広大な原っぱであり、それは霞町(現在の西麻布交差点あたり)まで広がっていた。

青山の地名は、青山忠成を輩出した大名・青山家の下屋敷などが、この地に点在していたことから付けられた。

戦前には、青山通りを路面電車の都電が走っており、今の表参道の交差点に「明治神宮前」、渋谷方面に「青山六」、赤坂方面に「青山五」の停車場があった。また、「青山六」の駅は、骨董通りを六本木方面に向かう線と交差していて、骨董通りには「青山南町」「南町六」が、通りを抜けたあたり現在の高速の入り口「高樹町」近辺に同名の停車場があった。(参照:戦前 昭和東京散歩/人文社)

元々、青山は、現在の伊藤忠本社の脇の銀杏並木から四谷にかけての広大な土地に青山練兵場(現在の国立競技場や神宮球場・秩父宮ラグビー場・絵画館・青山高校など)隣接する青山一丁目に陸軍大学校(現在の青山中学)があって、その軍関係者らの住宅が散在する軍都の様子をした地域であった。
現在の表参道の交差点から明治神宮にかけての参道は、有事に戦闘機の滑走路としても使用できるように真っ直ぐ幅広く取られた。

戦後まもなくの頃も寂しい場所で、勤務先の、原宿にあった社宅に住んでいた叔父から、社宅の近所で、たびたびタヌキに遭遇したと聞いたことがある。

また、イラストレーターの安西水丸も彼の著書の中で、高校生の頃、渋谷で遊んでいて、赤坂方面に向かう都電の最終を逃してしまい、赤坂の自宅まで歩いて帰る途中、表参道あたりは、街灯もなく暗く寂しい場所で通るのが怖かったと述べている。

表参道に関東大震災で家を失った人向けに建てられた日本初の文化住宅「同潤会アパート」(現在は表参道ヒルズ)、北青山には戦争で焼け出された人のための「北青山団地」(現存)があったが、それだけ広く空いた土地があったということであろう。

原宿から表参道一帯に人が集まりだしたのは、1964(昭和三十九)年10月の第一回東京オリンピックを境にして以降の、原宿に高級マンション「コープ・オリンピア」が建った頃からである。

少女・春草は、この青山の原っぱを友垣と駆け回ってすくすくと成長した。

柳の糸

五歳になった春草は、神戸の叔母さんに預けられて、行儀などを厳しく躾けられた。幼い当時は叔母のことがとても怖かったが、成長してこの時厳しく躾けられたことが後々ありがたかったと想ったという。

字は友人に誘われて材木町の先生に習い始めたが、十六歳の時に改めて麻布の飯島春敬に師事する。その動機はまだ、平安時代の文のやりとりから始まる恋物語のように、綺麗な文字で恋文を書きたいという程度であったという。しかし、書の美の深さに囚われることになる。

春草は、字以外に日本舞踊も学び、句や和歌をよく詠んだ。日本舞踊は花柳流の名取で人に教えもし、書家として名を成してからも国立劇場の舞台に立っている。句や和歌は詠むだけではなく『ホトトギス』などに投稿していた。形や表現方法は違えど美というものへの探究心が人一倍強かった証であろう。

これがのちに、国内外での他のジャンルの芸術家たちとの共同制作にも影響を与える。

戦後すぐの昭和二十一年に開催された、日本書道芸術院の「再建書道展」に出品した作品で仮名部の最高賞を獲得し、春草の書家としての道が定まった。
ここで、本名・町和子が町春草として誕生する。

書家として歩く決心をしたもうひとつの理由に「お見合いして、終戦の年に結婚しようと思っていたのに、相手の人が戦死しちゃったし。あらま、面白い、これもひとつの人生かもしれないから」ということもあった。

覚悟を決めた女性は強い。
春草はさっそく、第一回目の個展を企画する。
場所は日本橋の白木屋デパート(もと江戸三大呉服店のひとつで東急百貨店の前身)。

それまでデパートで書家が個展をやったことはなかった。
デパートで開催する意図を春草は「なるべくこっそりやりたいけれど、そうはいかない。デパートは人が大勢きますもの。どうせやるなら、大勢の人に見て欲しいんです」と、そして、「とにかく冒険するよりしょうがない。若い時は二度ないんだから、やっちゃえてなもんで」渋る白木屋の重役を説き伏せて個展を実現させる。

五〇、六〇は洟垂れ小僧といわれる書家の世界で、町春草という三十代に入ったばかりの、それも女性が、書道展としては初めてのデパートでのこの個展を成功させ、町春草の名は一躍有名となる。

この個展で春草が涙するほど嬉しかったのが、来場者が、作品の前で「あ、読める」と叫んだことであるという。それまで、一般の人にとって書とは「読めない」ものだったのである。

その後、川端康成の呼びかけで開催された「国際ペンクラブ国際大会」での「現代書道展」で好評を得たことがきっかけで、フランス・パリでの個展開催へとつながる。

パリの個展を皮切りにロンドン、ジュネーブ、ローマ、モロッコなどの海外での個展が複数回開催されるようになり、当地での芸術家たちとの制作協力による作品も生まれた。1985年にはフランス芸術文化勲章を受章するに至る。

今日、日本の書道が、芸術であることが広く西欧において認知されるようになったのは、町春草の功績によるものも大きい。

日本の作家たちも競うように、自らの作品の装幀に町春草の文字を欲した。
川端康成、吉川英治、草野心平、堀口大学、有吉佐和子、などなどである。

私にとっては、銘菓〈ひよ子〉の文字と、あの様子の良い黒塀の家が、15年暮らした表参道あたりの想い出として刻まれている。

しなやかな女性は、打たれ強く、たくましい。
あの佐保姫が染めた〝柳の糸〟のように——

編緝子_秋山徹