1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 令和四年 小満

令和四年 小満

2022年5月21日

衣を更える

〝型〟があっての〝型破り〟

更衣

小満_山、新緑に萌え満ち満ちて草木山川に生命力が溢れる時候である。

この小満の末候は〈麦秋至(ばくしゅういたる)〉、文字通り麦がたわわに実る時となる。

この時分から、日中の気温はどんどん上がり、それまでの春物の衣服は不向きとなって、6月1日の「更衣/ころもがえ」の日を境に衣服は夏物へと切り替わる。

和装の世界では更衣を界に、着物に裏のある袷(あわせ)から、裏なしの単衣(ひとえ)となる。
さらに、七月一日から八月三十一日までは単衣でも〈うすもの〉と呼ばれる麻の上布や生糸の紗・絽、木綿の浴衣といった盛夏用の量感のある着物に着分けられる。

長着(着物)だけでなく、羽織、帯、コートなどの他に、半衿、帯揚げなどの小物、長襦袢や下着類も素材や織りが夏用のものと更られ、これに草履や足袋、羽織紐、合切袋などの切り替えも加わる。

さらに、アイテムによって多少の違いもある。

具体的には、羽織は4月中旬から裏なしの単衣羽織、5月中旬から素材の違う夏羽織に、7月は羽織を着ず、8月から9月中旬までは再び夏羽織、そして9月下旬より10月末までが単羽織となり、11月より袷の羽織となる。

帯、半衿、帯揚げ、長襦袢に関しては、期間は着物に準ずるが、物によって7月に使われる素材が、8月のものには使われなかったり、同じ単衣の期間でも、6月と9月では素材や織りが違ったりするものもある。

素材や織りに加えて、時節ごとの自然や風物が文様・意匠・デザインとして用いられるため、長着、羽織、帯、半衿、帯締め、長襦袢、それぞれの素材、織り、意匠・文様・色目といったものとの組み合わせは限りなくある。

この無数の組み合わせの中から、自分好みの〝合わせ〟を探すのは楽しい_これが楽しいと感じられなければ、そもそも着物を着ない方がよろしい。

男ならば、大島紬の単衣や結城縮の長着に絽の羽織をあわせ、粗めに組んだ薄色の羽織紐を結び、麻の長襦袢にしぼの効いた白い麻の半襟、全麻の白い足袋などはいて、畳表の草履にこれも薄色の鼻緒などすげれば、すっきりとした初夏の装いとなろう。
柄や色目は、その人の体型や好みに合わせればよろしい。

この小満の時期に着る長着に、〈紗袷/しゃあわせ〉というものがある。
これは、絽と紗または紗を二重(無双)に仕立てた着物で、透ける生地が二重になっているのが特徴で、仕立てはとても難しい。
戦後に新橋の芸妓が5月末の「東をどり」で着てから流行ったと言われ、着る時期がまさにこの小満の更衣の前後、5月末から6月頭のほんの10日間だけに限られるという贅沢な着物である。


〈紗合わせの長着/Model.REO Sanada〉

四月一日さん

この時候の和菓子にも、虎屋に明治七年初出の「更衣」銘の生菓子があり、練り暗に米粉を混ぜて蒸しあげたものに和三盆を練り込み小口に切って表面に和三盆の粉をふりかけたものである。この菓子は五月三十日から六月一日の三日間のみ販売される。六月末の〈夏越しの祓え〉の時期に五日間だけ出され、氷を意匠したといわれる「水無月」も同じような菓子である。
「更衣」も、「水無月」も、年中行事に合わせて一年のある短い時期にのみにいただく生菓子のひとつである

夏の夜空に、一瞬、華やかに大輪の花を咲かせて消える打ち上げ花火のように、儚く消えゆくものを愛でる日本人の好みである。

徒らに歳を重ねた〝老耄〟の我が身が、あと何回「更衣」や「水無月」をいただけるのかと思うと、なお一層その甘味が滋味深いものとなる。

「更衣」は、現在では六月一日と十月一日としているが、特に宮中では六月一日には、着るものだけではなく、御簾や畳などの調度品の設えも更られる年中行事として定められていた。官公庁や学校の制服が更衣となるのはその名残りである。

旧暦の頃は、両日に加え四月一日、五月五日〈端午〉、九月九日〈重陽〉も「更衣」とされ衣が替えられた。

四月一日には袷の着物の中の綿が抜かれ、十月一日には再び綿が入れられる。
江戸末期の喜田川守貞という人による風俗誌的な随筆『守貞漫稿/もりさだまんこう』(1837/天保八年~1853/嘉永六年)に、次のような記述があり五月五日にさらに「更衣」が行なわれていたことがわかる。

「四月朔日。更衣と称し、今日より五月四日に至り、袷衣を着す。因之、今、苗字に四月一日と書て、わたぬきと訓ず也」

これによって、〝四月一日〟と書く苗字を〝わたぬき〟と読む理由もわかる。

さらに、享保二十年に書かれた菊岡沾涼の随筆『江府年行事』にも

「四月朔日 更衣、今日より五月四日まで袷を着るゆへ、けふを衣がへといふ、けふより九月八日まで足袋をはかず」

という記述があり、更衣とともに四月一日から九月九日までは、足袋を履かなかったとあるが、これは町民のみか、もしくは武家もそうだったのかは確認が取れていない。

「更衣」は、高温多湿な日本の気候風土に合わせて四季折々に行なわれた合理性の一面と、年中行事や儀礼の面がある。

宮中や武家社会では、四月一日、五月五日、六月一日、九月九日、十月一日の「更衣」の他にも細かく衣服が定められていた。

例えば『忠臣蔵』で浅野内匠頭が吉良上野介に松の廊下で刃傷に及ぶ原因のひとつとして、宮中からの使者を迎える儀式の際に、本来ならば大紋(裃袴などに大きな家紋が複数ある礼服)の式服を着るところを、吉良から伝えられず浅野が普通の家紋の式服で現れ、他の大名の面前で叱責された場面などが良い例であろう。

これに比べ、庶民の「更衣」は大雑把である。
本来、浴衣は七月一日からであるが、気の早い江戸っ子は五月中旬の「三社祭」が過ぎれば、浴衣を着るという者もいた。現在でも「三社祭」の最中は、町内で誂えた揃いの浴衣が着ている若衆が多くいる。

南北に長い日本列島では、北海道と沖縄では寒暖の差が激しい。京や江戸の気候に合わせて決められた「更衣」を強いるには無理がある。実際、熊本以南の九州では、三月中旬頃からは袷の着物では暑くていられないので、単衣を着ることが多い。
これが普段から頻繁に着物を親しむ人の現実に即した着こなしであるが、着物のプロに限って気候に合わせた着装に目くじらをたてる人が多い。
四月一日、五月五日、六月一日、九月九日、十月一日の「更衣」は、基本〝型〟である。
歌舞伎ではないが、〝型〟があっての〝型破り〟である。
〝型〟に縛られ過ぎてもつまらないものになるし、〝型〟を知らぬ〝型破り〟は不様である。

また、近年の温暖化により「更衣」と定める日を変更する時期に来ているのではなかろうか、〈袷を単衣〉にするのは現行の六月一日から五月五日、〈うすもの〉への移行は、六月中旬の入梅の時期にという風に。

どのくらい温暖化が進んでいるか、東京の平均気温を追ってみた。
明治維新の頃1870年代東京の五月の平均気温は〝20.4度〟、それから140年後の2010年代の五月の平均気温が〝24.2度〟でその差は4度近くもある。
さらに2010年代の5月で25度以上に気温が上昇したのが平均〝14.6日間〟に対して、50年から60年前の1949から1960年代(1948年以前は記録が取られていない)では〝6.8日〟となっており、その差は7.8日である。
もし記録があれば、1870年代に25度以上になった日はもっと少ないであろうことが容易に想像つく。

旧暦と新暦の差ではなく、「更衣」を定めた同月同日の気温の差がこれほど顕著であれば、これは、現実に即して改定するべきであろう。
伝統は、時代時代に応じて柔軟に変化してきたからこそ、伝統として生き続けてきた。

〝型〟に固執して〝型通り〟にし続けていると、普段から親しむべき〝お着物〟が、終いに文化財のような〝置き物〟と化してしまうだろう。


編緝子_秋山徹