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令和四年 秋分

2022年9月23日 ~ 2022年10月7日

夢になるといけねぇ

粟粥ができるまで

鳴く虫の女王

秋分_「秋の彼岸」の中日である。昼と夜の長さが全く同じ夏と秋の季節の真ん中で、冬と春の真ん中の「春の彼岸」に対して「後の彼岸」とも呼ばれる。

秋分から日々夜長となる。

普段、私の食料品の買い出しは近くのスーパーに多摩川沿いの道を通って行く。この土手の上の道は、ジョギングコースとなっていて、老若男女が各々のペースで走ったりウォーキングをしている。

私が買い物に行く夕刻早めの時間は、圧倒的にお年寄りが多い。皆さん一生懸命ウォーキングをされている。一方私はマイバックの市場籠をぶら下げてぷらりぷらりとだらしなく歩く。

夏から秋にかけてのこの時期には、土手に真緑をした夏草が鬱蒼と生い茂っている。じきに区の業者が綺麗さっぱり刈り取るのであるが、この草叢から虫の鳴き声が大いに聞こえる。思わず〝秋の夜長を鳴き通す ああ面白い虫の声〟と、この季節の歌を調子外れに口ずさむ。

先日もこの道をいつものように往復し部屋に戻った。

やがて室内に〝リュリュ、リュリュリュー〟と、何かの警報の音かと勘違いするほどの大音量が鳴り響いた。見ると市場籠にくっ付いた緑色の虫が鳴いていた。

カマキリやバッタに似た緑色だが、姿は小さく2センチほどだろうか、ましてやカマキリやバッタが鳴くのは聞いたことがない。

とにかくウルサイので、摘んでベランダから階下の植栽の植え込みへと逃がした。

姿形と鳴き声からネットで〈邯鄲(カンタン)〉という虫だと知れた。鳴き声には聞き覚えがあったが、姿を見たのは初めてではあるまいか。

邯鄲は、その〝ルルルルル〟という微(かす)かな美しい鳴き声から『鳴く虫の女王』と呼ばれるとあるが、とても微かではない。他の虫たちと外で鳴く分には微かであるかも知れぬが、室内で聞く邯鄲の鳴き声は充分大音量となる。

そもそも邯鄲は、中国は河北省、黄河の北部に、北京を取り囲むように位置する人口約900万人の邯鄲市の地名である。古くは趙の都として栄えた場所で、趙を滅ぼした秦の〈始皇帝〉の故郷として有名な場所でもある。

邯鄲の枕

この邯鄲の街が舞台の『邯鄲(かんたん)の枕』という有名な故事がある。

唐代の作家・沈既済(しんきせい)の伝奇小説『枕中記』にちなむもので、その内容は「故郷を出た〈盧生(ろせい)〉という若者が、邯鄲で呂翁(ろおう)という道士に出会う。その呂翁から授かった枕で眠りにつくと、自分が立身出世を果たし、栄達の限りを尽くして死ぬまでの出来事を夢みた。しかしそれは、粟の粥が炊き上がるまでのひとときの間の夢であった。それによって、盧生は人生の栄枯盛衰の儚(はかな)さを悟り、故郷に帰っていった」という話である。

中国では粟を黄粱と呼ぶため『黄粱の一炊』とも言われる。

これが日本に渡り、能楽の一曲『邯鄲』(作者不明となっているが、世阿弥の作という説もある)や、芥川龍之介が『黄粱粥』という作品を残したり、三島由紀夫は『近代能楽集』という能楽の古典の舞台を現代に置き換えた八曲の戯曲集に、『卒塔婆小町』『弱法師』『道成寺』とともに『邯鄲』も収めている。

短い作品なので以下に、芥川龍之介の『黄粱粥』を全文掲載する。


盧生は死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅が足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。
すると枕もとには依然として、道士の呂翁が坐っている。
主人の炊いでいた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があってもうすら寒い。

「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を噛みながら、笑を噛み殺すような顔をして云った。
「ええ」
「夢をみましたろう。」
「見ました。」
「どんな夢を見ました。」
「何でも大へん長い夢です。始めは清河の崔氏の女と一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうして明る年、進士の試験に及第して、渭南の尉になりました。それから、監察御史や起居舎人知制誥を経て、とんとん拍子に中書門下平章事になりましたが、讒を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州へ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、冤を雪ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令になり、燕国公に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
「それから、どうしました。」
「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」
呂翁は、得意らしく髭を撫でた。

「では、寵辱の道も窮達の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着も、熱がさめたでしょう。得喪の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」
盧生は、じれったそうに呂翁の語を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。

「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
呂翁は顔をしかめたまま、然りとも否とも答えなかった。

〈了〉


 

主人公が、本来の物語の「人生の儚さを悟り故郷へと戻る〝真っ当な青年〟盧生」から、芥川版では「夢でも構わぬから栄達を求める〝世俗の煩悩にまみれた〟盧生」へと代わっている。

本来の筋書きを知った際、芥川版の盧生と同じ想いを抱いた私は頭を掻いた。

舞台を近代においた三島の戯曲『邯鄲』は、邯鄲の枕をどういう経緯か家宝としていた女を乳母として育った青年が、乳母を辞した女の元に訪れ、邯鄲の枕で寝させてくれと頼み寝る。やがて、自己の栄衰をみた青年は自分の想像通り、人生とはこんなものかと、やや虚無感を持って思う。本来の話のように悟って清々しく故郷に戻るというものではないが、夢を見る前と後では多少、青年の環境に明るさが見える。

また、同じく邯鄲が舞台の故事に『荘子(秋水編)』の「邯鄲の歩み」がある。


不聞夫壽陵餘子之學行於邯鄲與。
未得國能、又失其故行矣。
直匍匐而歸耳。

かの寿陵の余子(よし)の行(あゆ)みを邯鄲(かんたん)に学ぶを聞きかざるや。
いまだ国能(こくのう)を得(え)ざるに、またその故き行(あゆ)みを失しなう。
直だ匍匐(ほふく)して帰るのみ。

「(田舎町の)寿陵の若者が、流行の歩き方を(大都会の)邯鄲に学びにいった話を聞いたことがないかね。せっかくの都ぶりが身につかないうちに、自分本来の歩き方まで忘れてしまい、腹ばいになって故郷に帰っていったそうだ」と、主体性を確立しないまま流行を「猿まね」した悲劇とある。


 

こちらは「国語である日本語も覚束ないうちに小学校から英語教育を始める危うさ」に、私にはどうしてもかぶってしまう。

大晦日の大ネタ

大晦日に演られることの多い落語の古典に『芝浜』がある。落語好きの中には大晦日にこのネタを観ないと落ち着いて新しい年が迎えられないという人も多い。

噺は、江戸のとある裏長屋。腕はめっぽう良いが、それ以上に酒に目がなくて、酒のしくじりが多くウダツのあがらぬ魚屋の勝(五郎)。今日も今日とて二日酔いで寝ているところをしっかり者の女房に無理やり起こされ、しかたなく魚河岸に嫌々向かうが、早すぎて河岸はまだ開いていない。顔を洗い〝芝浜〟で一服していると海の中に財布が落ちているのを見つける。財布の中には42両という大金が入っており、勝は喜び勇んで家へと飛んで帰り、仲間を集めてどんちゃん騒ぎ、べろんべろんに酔って寝てしまう。

翌朝、二日酔いで起きた勝。女房に「昨日の金は」と聞くと、女房「何の話だい」、勝「昨日拾ってきた財布に入っていた42両だ」と言うが女房に「そんなものぁ無いよ。大方夢でも観たんだろ」と言われて夢だったと思い込む。
昨日のどんちゃん騒ぎの勘定もままならず、大いに反省した勝は、翌日から大好きな酒を断ち、真面目に商売に精を出す。

元来腕の良い魚屋のこと、商売は大変繁盛し、やがて表通りに店を構え奉公人も雇うまでになった三年後の大晦日。女房は三年前42両の大金を拾ってきた夢は、夢ではなく本当のことだと告げる。
「よく頑張ったね」と酒を勧める女房。勝も酒を口にしようとするが、思いとどまって盃を置く。女房が「どうしたのさ」と尋ねると、勝はしみじみと言う
「うん、また夢になるといけねぇ」。
これで噺は落ちる。

原作は三遊亭圓朝とされ、桂三木助が十八番としたほか、立川談志も好んで演った。

『芝浜』は、『邯鄲の枕』とは夢と現実が逆であるが、夢がもとで人生が変わると言う噺に違いがない。

コロナ以前から、諸々の事情により自粛中の隠居親爺は訴えたい。

「夢なら醒めて!」

 

編緝子_秋山徹