令和四年 小暑/七夕
夏座敷と星祭り
待ち遠しい〈物売り〉たち
羅(うすもの)
小暑/七夕_梅雨が明けて夏本番を迎える時候
令和四年は、六月中に早々と梅雨明け宣言が出されて、例年より一足早く夏日となった。
きものは、七月一日に裏地のない単衣(ひとえ)から、織り自体が薄い*紗(しゃ/粗めの織)・*絽(ろ/絡み織)・上布(じょうふ/麻のきもの)である羅(うすもの)に衣替えとなる。
*紗と絽の織りの具体的な違いは、〝紗〟が縦糸・横糸ともに強撚糸(強いひねりの糸)を使うのに対し、〝絽〟は横糸のみに強撚糸を使う。強撚糸を使うことで糸と糸の間の隙間が大きくなり、袷や単衣よりも風が通りやすくなるため着た時に涼しくなる。
また、梅雨明けのこの時期には、〝虫干し・土用干し〟が行なわれた。湿気を嫌うきものを箪笥から出し、吊るして、布に含む湿気を切った。これを〈風通し〉と呼んだ。
秋冬用の袷(あわせ)も単衣も羅も箪笥から引っ張り出され、湿気が払われる。虫干しが終わると、袷と単衣は仕舞い。以降は羅を着る。高温多湿の気候である日本の知恵であるが、女性にとって、部屋に吊るされた色取り取りのきものを眺めるのも楽しみな年中行事のひとつであった。
家全体も夏のしつらいに替えられる。襖や障子は外されて葭戸(よしど)が立てられ、御簾(みす)を垂らす。畳の上には竹で編んだ簟(たかむしろ)が敷かれ、座布団も麻やい草などの夏仕様に、縁側には籐の椅子、その上の軒に風鈴や吊り忍(シダ科の植物)が掛けられれば〈夏座敷〉の出来上がりである。
さて、現在、夏座敷をしつらう日本家屋や家庭が全国にどのくらい残っているのだろう。
いま、我々、特に都会に暮らす者の日常は、触れることのない・触れたくもないものに囲まれている。コンクリートの箱造りであるマンション、新建材で建てられたアパートや建売住宅に住み、アスファルトの上を歩いて、電車や車の鉄の箱に乗って通い、これまたコンクリートに囲まれた会社のビルで就労する。
都会人は、土や樹木に触れることの叶わない世界に取り囲まれて暮らしている。土や樹木といっても公園やアスファルトの路肩に植樹されたのがせいぜいであり、そこに生命力は感じられない。素足の裏に直接い草を感じる畳さえ新築の住居からは消えつつある。
江戸の物売り
江戸の時代から現代までに消えたものに〈物売り〉が、ある。街を流しながら売り歩く〈物売り〉。売り物によって独特の売り声を上げながらやってくる〈物売り〉たちである。特に、この梅雨明け前後の時期にやってくる物売りには、待ち遠しげなものがある。それは〝虫売り〟〝朝顔売り〟〝七夕の竹売り〟たちである。
〝虫売り〟は、六月の中旬からお盆までの間にやってきた。江戸の時代には、お盆に飼っている虫を放す風習があったので、虫売りはそれまでの季節商売であった。売られる虫たちは、夜目に美しい〈蛍〉が一番人気で、次いで〈こおろぎ〉〈鈴虫〉〈松虫〉〈轡(くつわ)虫〉などの鳴き声の音のよいものである。虫は虫屋が育てたもので庶民にとっては比較的高価だったらしいが、明治以降、野生のものが売られるようになって値段が下がったという。
虫は虫籠に入れられて売られるが、関西の虫籠は粗雑なもので、関東では手の込んだ精巧なものが好まれたという。私の子供の頃は、虫籠は町の雑貨屋によく吊るされて売られていたが、今では雑貨屋自体が珍しい存在となってしまった。
現代の子供が自分で採れぬカブト虫やクワガタを、親が買い与えるのとは、風情が違う。
以前も記したが、欧米人は虫の音を喧しい騒音としか感じず、虫の音を愛でるという日本人は世界でも珍しい民族らしい。
田舎育ちの私には、電灯を消した暗い部屋の蚊帳の中に親父が放ったほんのり光る蛍を眺めて、子供心に素敵だなと思った初夏の記憶がある。
〝朝顔売り〟は、五月半ばから八月前に街にやってきた。売り物に合わせ早朝未明から出て、正午には売り終えていたようで、売り切るために早朝と正午では売値が随分違ったそうだ。朝顔は大輪・小輪のものが鉢植え仕立で売られ、花の色は〝紅〟〝白〟〝瑠璃(るり)〟〝浅葱〟〝紫〟〝柿色〟〝縁とり〟〝絞り〟など多色のものが売られていた。
これらは、ひとつの鉢に一色というのでは無く、何色かの朝顔が鉢に植えられていたという。それは「——そこは、問屋でも如才無く変わり種や良変わり等は、培養の当時に色彩の同じからぬやう配列してあるから、一鉢の中に紫ばかり咲くやうな気遣ひはない」(『太平洋』明治38年刊)という一文からわかる。
朝顔は素朴で飾り気が無く、楚々とした様子が良いが、一鉢の中にいろいろな色の朝顔があるというのはなんとも、嬉しいものだろう。
星祭り
七夕の前には〝竹売り〟がやってくる。
子供が手に持って歩けるくらいのものから、竿の先に立てるものまで、手頃な大きさに切った青竹を売り歩く。
青竹には天の川と書いた色紙や短冊を笹に結び、瓢箪や吹き流しがつけられて、竿の先に括り付けて立て上げた。
家々で作っていた色紙の短冊や吹き流しなどは、のちに種々の形のものが売り出されるようになった。
どんなに貧しい長屋でも、みな七夕のこの青竹は買い求めていたという。
色街吉原でも七夕では各妓楼ごとに竹を立て、こちらは千客万来を願って短冊の他に〝ほおづき〟と〝扇〟を吊るした。また特別な日の〈紋日〉として、通常よりも揚代は高く、遊女は競って客を呼んだ。
「七夕は 遊女の為の ゑびす講」
今も昔も色街の贔屓筋は金のかかることである。もっとも、牽牛織姫のように年に一度の逢瀬では商売上がったりであろうが。
七夕の別名は〝星祭り〟、新暦では七月七日あたりは梅雨時で曇ることが多く、天の川が見えることの方が珍しいが、旧暦には満天の星空を満喫できただろう。
江戸の七夕祭りの絵に、庭に台を置き、その上に香花や果物、素麺などを供えて、芋に金の針七本・銀の針七本に五色の糸を通して置き、裁縫の上達を願う二人の娘を描いたものがある。その娘が覗き込んでいるのが、黒塗りの木の盥(たらい)である。そう、これは、蛍を蚊帳に入れて眺めると同じように、黒い漆塗りの盥に水を張り、そこに映る星を眺めて楽しんでいるのである。なんと風情のあることか。黒い盥に閉じ込めた星を眺める女性の姿というのも、ほのかに色っぽい。
また七夕には七、八歳から十二、三歳の女の子が、綺麗な着物を着て手に手に太鼓を持って歌い歩く、〈小町踊り・七夕踊り〉というものも江戸末期まで行なわれていた。これは七夕様を慰めるためのもので、女の子だけで行なわれていたという。
祝い事ではないが、七月七日には〈井戸浚(さら)い〉が行なわれた。江戸中の井戸という井戸の水が一旦全部組汲み上げられ、井戸の内側を洗い落下物を拾った。井戸を浚い終わったら御酒と塩で清めたという。これは江戸だけで無く日本中で七月七日に行なわれた。井戸水の汲み上げは、共同で使う者が総出で行なうが。作業を取り仕切ったのは井戸職人という者達だった。
このように江戸の七夕近辺というのは、なかなかに忙しい。
六月の晦日に〝夏越の祓え〟で神社の茅の輪を潜って、半年の穢れを雪ぎ、氷を模した和菓子〝水無月〟をいただく。やがて、〝虫売り〟を見かけて蛍を求め虫籠を軒にぶら下げる。〝朝顔売り〟から色とりどりの朝顔を鉢を買い庭や軒先に置く。七夕の〝青竹売り〟が持ってきた色とりどりの短冊や梶の葉・瓢箪型の色紙を青竹に吊るして竿の先につけて高く掲げ、庭に台を置き素麺や花や果物、芋に針を刺して五色の糸を通したものをしつらえて裁縫の上達を願う。夜に星が出れば黒漆の盥に星を映して愛でる。
江戸の七夕を想うと、ああ羨ましいなと独り言ちてしまう。齢を重ねた親爺の、懐古主義がすぎるのであろうか。
私には、この江戸の生活がとても洗練されて、風情があり、風雅に映る。
個々人によって〝豊かさの基準〟や〝生活の質の度合い〟は異なるのだろうが、すくなくとも現代よりは江戸時代の方がはるかに〈生活大国〉であったように感じる。
確かに現代は、ネットを検索すれば、〝飛び交う蛍〟や〝非の打ち所のない朝顔〟〝仙台の立派な七夕飾り〟〝燦めく天の川〟といったものを夏に限らず一年中画面を通して見ることができる。しかし、これを決して「技術の革新から生まれた文明の利器が与えてくれる恩恵である」と大きな考え違いをしてはならない。はっきり言ってしまおう、どんなに解像度が上がり音響技術が上がろうと、画面越しの〝蛍〟〝天の川〟〝朝顔〟〝青竹〟は、江戸の時代の粗末なものよりも、現代の方がよっぽど貧乏くさい。
たかだか携帯が繋がらなくなって、世の中が右往左往してしまう、そんなみっともない時代なのである。