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令和四年 大暑

2022年7月23日

松五郎の純愛

それぞれの祇園

三大祇園

大暑_六月に早々と梅雨が明けたと思ったら、七月に入り酷い雨が続いた。また、あってはならぬ凶行も起きた。

かつて高温多湿の日本の夏には、疫病が猛威を振るうことがたびたびあった。

収穫を寿ぎ秋に行われる田舎の祭りと違い、都市の祭りは夏に流行る疫病を封じ込めるのを神に願うものである。〈京都祇園祭〉〈博多祇園山笠〉〈大阪天神祭〉などがその有名なもので、我が郷里には無法松で有名な〈小倉祇園太鼓〉があり、京都・博多と並んで「全国三大祇園」と呼ばれる。しかし、日本に限らず人は「三大〇〇」と表現するのが好きである。

小倉祇園太鼓では、各町内で太鼓を中心にして飾った山車をしつらい、小倉の街中を巡行したあとに、小倉城前で太鼓の演舞を披露する。江戸の時代には城主が城の櫓からそれを眺めたという。

〝祭り〟に命をかける男達がいるのは、今も昔も、全国津々浦々変わりがない。ほんの少し前まで祇園太鼓の撥(ばち)を握るのは荒くれ者が多く。城主が謁する小倉城前以外の巡行では、乱れ打ちといって二人の男が山車の左右から跳ねるように踊りながら撥を大きく振って太鼓を打ち鳴らした。

限られた道幅で大きな振りで太鼓を叩き合う山車と山車がすれ違う際は、どうしても打ち手の撥が互いに当たり合う、と、ここで小競り合いが始まり、やがて町内ぐるみの乱闘となるのである。撥は決して偶然に当たったのではなく、互いの山車が近づいた時点で打ち手同士はすでに臨戦態勢で、ほとんどすれ違うと同時に殴り合うのであった。

無法松の一生

この小倉の荒くれ者の代表が、明治後半の小倉を舞台とした岩下俊作の小説『無法松の一生』で有名な〈富島松五郎〉である。
発表当時は『富島松五郎伝』のちに改題
小説の松五郎は実在の人物ではなく、岩下俊作の創作上の人物であるが、無法松と呼ばれるほど粗野な乱暴者であると同時に、侠気と優しさを併せ持つ様が小倉者には愛された。

『無法松の一生』は、幾度も映画や舞台、テレビドラマとして制作されているが、稲垣浩が監督し阪東妻三郎・三船敏郎がそれぞれ主演した二本の作品が有名で、特に1958年に制作された三船主演の作品は「第19回ベネチア映画祭・金獅子賞」を受賞して無法松は世界的に有名となった。
1958年の三船敏郎といえば、黒沢明作品の『七人の侍/1954』『蜘蛛巣城/1957』と『隠し砦の三悪人/1958』の作品の間に、この『無法松の一生』の撮影が行なわれており、まさに役者として脂の乗り切った時期であった。
阪東妻三郎版 「本編」/三船敏郎版「予告編

また、この映画の主題歌を村田英雄が歌って大ヒットした。ちなみにこの歌は村田英雄のデビュー曲である。

無法松の一生—度胸千両入り—
作詞:吉野夫二郎/作曲:古賀政男

小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松

今宵冷たい 片割れ月に
見せた涙は 嘘じゃない
女嫌いの 男の胸に
秘める面影 誰が知る
男松五郎 何を泣く

泣くな嘆くな 男じゃないか
どうせ実らぬ 恋じゃもの
愚痴や未練は 玄界灘に
捨てて太鼓の 乱れ打ち
夢も通えよ 女男(みょうと)波

この歌詞から分かるように『無法松の一生』の物語は、荒くれの仮面を被った無骨で不器用な松五郎の純愛物語である。

小倉祇園太鼓は、私が十代の頃までは荒っぽい祭りであったが、近年は観光化された影響もあり、随分と大人しく健全になったらしい。なにせ高校生の時、友人の友人には祇園太鼓のために背中に刺青を入れた奴がいたほどである。彫り代は親が出して入れさせたらしい。もちろん親はカタギではない。

いかにも自分が硬派の小倉者のように祇園太鼓を紹介しているが、自分は中途半端なごくごく軟派者であったのが情けない。

さて、京都の祇園祭である。

コンチキチンとわらべ唄

京都の祇園祭では宵山の期間、疫病封じの御守りとして〝蘇民将来子孫〟の護符が貼られた「厄除けちまき」が八坂神社や山鉾付近や会所で売られる。
そもそも厄除けちまきは、そのむかし山鉾巡行の際に山鉾の上から撒かれていたらしい。
今でも山鉾巡行前日の宵山には、コンチキチンのお囃子の音に混ざり子供たちの「わらべ唄」の呼び込みの声が聞こえる。

〇〇のお守りは これよりでます
常は出ませぬ 今晩かぎり
ご信心のおん方さまは
受けてお帰りなされましょう
ろうそく一本献じられましょう

今夏、疫病コロナの第七派が列島を襲っている。まさしく祇園の厄除けちまきが効力を発揮してくれる時だろうが、そろそろ陽性者の増加をヒステリックに大騒ぎするのを止めてはどうだろうか。すでに、社会生活を脅かす疫病ではなくなっていると想うのだが。

基本的に人混みが苦手で、祇園祭の期間つまり七月には京都に行くのを避けていた私だが、五年ほど前に一度だけ宵山の時に京都を訪ねたことがある。
八坂神社で厄除けちまきを求めてから、祇園をのんびりぶらぶらとして—などと甘い事を考えていたら、あまりの蒸し暑さと人の多さに目眩がして、八坂神社前四条通りにある「鍵善良房(かぎぜんよしふさ)」に飛び込んで冷たい〝くずきり〟を流し込んでから、薄茶をいただいたが、吹き出す汗はなかなか止まらなかった。
ようやく落ち着いたと思い表に出た途端、再びの人いきれと蒸し暑さに目眩がぶり返し、這々の体でホテルに逃げ帰り水風呂に飛び込んだ。
この時に私が着ていたのは、白い麻の襦袢に生成りに細い黒縦縞の能登上布。帯は総絞りの兵児帯巻いていたが、この太くて巻くと厚い兵児帯が良くなかった。兵児帯がぐるりと巻く下腹に汗が溜まりに溜まりぐしょぐしょとなり、絞りは伸びきってしまっていた。

私は、水風呂にひたひたと浸かり、鍵善良房で求めた和三盆を固めた可愛らしい干菓子〝おちょま〟をかりかりと齧りながら、〈疫病除け〉を貰いに行って倒れそうになるのはどういうことだ、と独り言ちた。

さらに水風呂に浸かりながら、思い出していたのは、四条通りで欧米の観光客に英語で何かを訊ねられ、彼らが何を訪ねているのかが全く聞き取れず、何も彼らに応えられなくて、ほとほと情けない想いをしたことだ。

まあ、情けない想いをしたといっても、ほとんど英語が話せないのだから当然といえば当然のことなのだが、これでも、編集者およびコーディネイターとして海外取材や撮影の仕事で欧州イタリヤや東南アジア・タイなどには、かなりの頻度で渡航していたのだから、(もちろんイタリア語およびタイ語が話せるわけではない)我ながら、厚かましいというか、怖いもの知らずといおうか恐れ入る。

そこで次回は、何故、私は英語がろくに話せないのか、つらつらと考えてみたい。

 

編緝子_秋山徹