令和五年 芒種
宿替え
引越魔・画狂人
38回の顛末
芒種_穂先に棘のような芒(のぎ)を持つイネ科の穀物の種を蒔く頃。
今年は雨の日が多いためか、涼しく感じる日々である。
例年は六月一日の更衣まで、着物を袷から単衣に着替えるのが遅すぎると感じるほど気温が高いのだが、今年は凌ぎやすい日々が続いた。
六月一日に虎屋で「更衣」銘の生菓子を求めるため、日比谷と銀座を漫(そぞ)ろ歩いたが、風が心地よかった。毎度思うが、一年に一度この時期のみに作られる「更衣」の菓子をあと何度口にすることができるのだろう。
銀座松屋の裏手の「野の花 司」で芒種に合わせて「稗(ひえ)」を二本買う。稲と同じイネ科に属する粟と稗は花器に飾る分にはよろしいが、米の代わりに食えと言われると、ちと厳しい思いがする。
諸々の事情により、三日のちに引越をすることになった。移動の多い人生だなと、改めて、生まれてこのかた行なった引っ越しの数を数えてみた。今回が都合38回目の引越しであった。
振り返ってみると、10歳以下での3回は父親の転勤や家の新築といった親の事情で移動は福岡県内である。
10代の9回は私自身のしくじりで高校を替わったというのが主な要因である。
20代は、大学進学と同棲・結婚・就職・転職・離婚と忙しかった割には東京・北海道間を含み7回で収まった。
30代は、生来の定まらぬ性根のせいで、転職の繰り返し・独立・結婚・離婚などしくじりの連続で、青森・東京間などを11回と一年に一回以上のペースで引っ越(夜逃げ同然)した。
40代は、どうにかイタリア関連と編集の仕事の両立が落ち着き南青山界隈を3回で済んだ。
50代は、事務所をたたみ、着物関連の雑誌編集の職に就き、六本木界隈で2回。
60代の現在は、定年による再度独立などにより2回、そして今回が38回目の移動である。
生前父親が「お前の住所変更だけで住所録のページが足りなくなった」と怒っていたが、まったくもって尤もです。
こうして我が恥を晒してみるに、かなり当たると評判の占い師二人が私をみて異口同音に「彼方は金は入るが残らない。そして、家族・家庭というものに縁がない」と宣ったのを思い出し、熟(つくづく)、「ああ、あの二人の占い師は優秀だったのだな」と感心するのである。
上には上が
著名な人間で引越しが多かった人を探してみたら、谷崎潤一郎が40回以上、夏目漱石で30回以上とあった。
谷崎を師と仰ぎ、その姿を描いた今東光の作品『十二階崩壊』によれば、谷崎は引越のたびに新しく家具を買い換えたという。また、驚くべきはその蔵書の少ないことで、記憶力の凄まじい谷崎は頭の中に必要な文献の内容が入っていたらしい。『少年愛の美学』で知られる稲垣足穂も蔵書は一冊も持たず、すべて頭の中にある文献から引用して文章を記したという。この二人から遥か遠くの隅っこで雑文らしきものを書いているこちらとしては、とても畏れ多いことである。
その九十年の人生において93回引越したという、漱石・谷崎の二人を遥かに凌駕する〈引越魔〉が葛飾北斎である。
なにせ一日に三回も引越したことがあるという。
北斎の引越癖は、描画に熱中するあまり片付ける時間がもったいないという理由からで、部屋が汚れると次の部屋へと引越した、という説が有力らしい。
また、北斎の少し前の時代の人に、百回転居した寺町百庵(ゆえに号が百の庵か)という人物がおり、負けず嫌いの北斎がこれに対抗したという説もあるらしい。
北斎は雅号も頻繁に変えた人らしく、有名なところでは〈画狂人〉など、生涯で30回も改号したという。改号するときには、古い雅号を弟子に売ったそうだが、赤貧であったの北斎が、売買自体を目的として改号した節がある。北斎の号さえ、ある弟子に売り渡したというが、ほんに畸人である。
「太田記念美術館HPより/https://otakinen-museum.note.jp/n/n1e04d33b89d8」
好きな落語で引越といえば古典落語の『宿替え』である。江戸落語では『粗忽の釘』という題で演られるものだ。古典落語といってもドタバタの滑稽噺で、何も考えずに笑いたいときにはもってこいの話である。筋書きも簡単で大変粗忽でそそっかしい大工の八ッつあんが引越で色々とやらかすという噺である。ここで筋を語るのは野暮なので、それはせずにYouTubeで見ることのできる収録のアドレスを記す。
大御所の柳家小さん(残念ながら音声のみである)も良いのだが、おっちょこちょいの粗忽者を演じるのは、春風亭一之輔くらいの年齢の風体の方が面白いと私は気に入っている。少し枕(前置き)が長いのだが、時間のあるときに是非お楽しみいただきたい。
『宿替え(上方)/粗忽の釘(江戸)』
柳家小さん
春風亭一之輔(噺は17:45辺りから)
題名に引越と入る噺『引越の夢』もあるが、こちらは直接引越に関係はなく、大店で番頭二人が女中に夜這いをかける噺である。こちらも顛末は直接ご覧いただきたい。
『口入屋(上方)/引越の夢(江戸)』
三遊亭圓生
古今亭志ん朝
引越挨拶
引越をすれば隣近所に挨拶に行くのが常であった。かつて挨拶は向こう三軒両隣と言われたが、マンションとなると両隣程度にすれば良いということになるし、マンションによっては挨拶自体が迷惑がられることもある。以前住んでいた六本木のマンションでは、引越の挨拶に両隣の部屋を何度訪ねても、出てもらえなかった。ついに持参の菓子の賞味期限が迫り諦めて自分で喰った。後に判ったことであるが、両隣とも若い女性の一人暮らしであったので、隣に越してきた怪しい親爺に挨拶なんぞしたくなかったのであろう。女性の身になれば判らぬでもない。
かつて、日本は村社会であった。新参者は、村人に受け入れてもらわなければ暮らしていけなかった。村八分にでもなればそれこそ大変なことになる。地域によっては、村人を家に呼び、風呂に入たあと浴衣を着せて、宴会をしたという。まず共に食事を摂ることから関係を始めるのである。この互いに同じものを食べる共食信仰が根強かった。
この共食が簡素化されて隣近所の挨拶には餅を配るようになり、それが江戸ではもっと簡素な喰いもの〝蕎麦〟となったという。もちろん茹でた蕎麦では、すぐに延びたり、傷んでしまうので、蕎麦の食事券のようなものを配ったという。
時代が変われば〈しきたり〉〈風俗〉も変化する。しかし、変化して形を変えて残るのであれば良いが、無くなってしまうのは、寂しいと思うのは年寄りのみか。
38回引越をしたが、予定通りに上手くいけば、あと一回「終の住処(すみか)」への引越をしたいと考えている。住処といかず〈あの世〉とならぬことを願うばかりである。