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令和五年 夏至

2023年6月21日 ~ 2023年7月6日

持ち物の基準

シンボルに惑わされる

旅のゆらゆら

夏至_暦は夏に至る。と、同時に入梅の時期である。この梅雨の時期に花を咲かせるのが栗であることから、栗花落が〈ついり〉と当て字される。

この時期の季語に〈短夜〉がある。
夏の日ともいえども、夜には気温が下がり凌ぎやすくなる。また、月でも綺麗に出ようものなら冷酒がうまいし。傍らに麗しき女性などいればこの上なくよろしい。
めったに出かけぬ夜の雨も涼しくて良い。
ことほど左様に結構な夜が、夏至には最も短いことを恨むのである。

蕪村に「短夜に枕に近き銀屏風」がある。
白拍子(遊女)と一夜を共にしたあとの早朝を詠んだもので、なかなか色っぽくてよろしい。と、記したところで、ハタと思い昨年の夏至のコラムを見直したら、同じ句を取り上げていた。不埒なものばかりが巡るという頭の軽さが露呈す
る。

引越から約二週間が経つ。まだまだ部屋は落ち着かぬ。

引越というのは旅に似ている。というよりは、帰ることのない行きっぱなしの片道切符の旅である。しかも大荷物である。

旅も引越も、終わった直後の頭のゆらゆらが止まるまでには時間がかかる。ワインもしかりで、長い旅を終えたばかりのワインは、粒子が落ち着くまでにそれなりの時間を必要とし、味が定まらないようだ。新しく届いたばかりのワインは、最低一ヶ月は商品として店で提供できないと以前イタリアワインのソムリエ・内藤さんに訊いた。

最も、ワインは時間を置けば本来の高い品質を取り戻せるが、私の品質はずっと低いばかりである。

このように、引越直後というのは気持ちが落ち着かず定まらないと相場が決まっている。
まず、新しい家具の配置に慣れ、どこに何があるかが皮膚感覚で把握できて、ストレスなく生活できるまでに結構時間がかかるものだ。
特に料理がそうだ、調理道具と調味料の位置が頭に入るまで、料理時間は以前の倍とは言わないが三割増以上にになるのではなかろか。味も落ちる気がするのは腕のせいか。

ずいぶん整理したつもりの持ち物も、ダンボールに詰めてみれば結構な数があるものだ。

断捨離

一時期、巷で〈断捨離/だんしゃり〉という言葉が流行った。持ち物を限りなく整理してシンプルに生きる、という程度のことのようであったと記憶している。
本来、物を持たない(断)、捨てる(捨)執着しない(離)状態に己を置いて精神性を高めるという行為であり、タイなどの上座仏教の出家者・比丘(びく)の修行に近い。

タイでは、男子は一時出家といって一生に一度かならず短期間の出家をする。成人の儀式のようなもので、これを行なっていないと一人前の男として認めてもらえない。結婚の挨拶で一時出家をしていないとわかれば、相手の親に「出家してから出直してこい」と言われるし、公務員や民間の企業でも社員が一時出家している期間は有給扱いとなる。

出家中の比丘は、衣服・食べ物のすべてを寄進されたもののみで生活しなければならない。寄進された食べ物は当日中に食べ、残ったものは明日に持ち越せず捨ててしまわなければならない。明日に残すことは蓄財となり物欲に、ひいてはそれが煩悩であると教えられる。
もし明日、食べ物の寄進がなければ何も口に入れずに過ごす。これが出家の修行である。またその日の食事は、太陽が上がり自分の掌の手相の線が見える早朝から、お日様が空の真上に来るまでに終えなければならない。これ以降口に入れるものとしては、水・牛乳・チーズが許されるのみである。

寺院の建物もまた釘一本にいたるまで、寄進されたもので建てられる。

一時出家を経験して、本格的に仏教に帰依せんと再度出家することを〈本出家〉というが、この場合、出家するものは地位、家族、財産の全てを捨てて出家しなければならない。

これが真の〈断捨離〉である。

もちろん一般の我々が、現代の大量生産・大量消費の世に〈断捨離〉の精神性を以って生活することは大いに意味があるだろう。

持ち物の基準

〈断捨離〉には遠く及ばないが、見栄や体裁にとらわれずに、自分にとって本当に必要なものを厳選してそれだけで暮らせれば、どんなに楽だろうと思う。

本当に良いものを選び出す能力や審美眼を身につけ、たまたま手元に置いたものが一流品であったというのが理想である。

ブランドのシンボルやマーク・記号でものを選ばない「持ち物の基準」を持ちたい。大袈裟ではなく、それが〈自己アイデンティティーの確立〉によってのみ「持ち物の基準」というものは導かれるのではなかろうか。

本当に満足する本物、クラフトマンシップに裏打ちされた良品を手に入れるか、それ以外のものならむしろ何も持たないくらいの気概を持ちたい。

スノッブではない価値観というものを貫けたらと思う。

ただ、良質なものを見抜く力や審美眼を磨くには時間と労力と一定のコストがかかるのも事実である。その過程では紛い物や質の悪いものを掴んでしまう事もある。それも勉強であるという意識でもって、大量消費の波に呑み混まれない事である。

私が忌み嫌うのは、ブランドのコピー商品である。コピー商品を持つということは、ただ、そのブランドのシンボルを得るためだけに(しかも紛い物を)小金を払うという行為で、物そのものの質を全く無視している。なによりも偽物を持つという精神性がよろしくない。しかし、偽物を持つくらいなら安物を持った方が良いというのも違う気がする。

むかし、尊敬する大先輩に「物を買うときには、爪先立ちするくらいの無理をして買いなさい。そしてそれを大事に使いなさい」と言われた。この爪先立ちという塩梅が難しい。調子に乗って清水の舞台から飛び降りて大怪我をした買い物が多々ある。

〈持ち物〉の中では文房具が好きである。特に、万年筆・ボールペン・シャープペンシルといった類の筆記具に目が無い。決して高価なものや、コレクターのように数を多く持ち合わせているわけでもない。
今回の引越で諸々の整理をしていたらモンブランを筆頭に、ペリカン、カヴェコ、パーカー、クロス、シェーファー、アウロラ、デルタが手元にあった。たしかウォーターマンとモンテグラッパのボールペンがあったはずなのに、どこかに消えてしまった。

ボールペンが多いが、万年筆も6本ほどある。そのほとんどが通貨がユーロになる前のリラの時代にイタリアで買い求めたものである。イタリアに仕事で行くたびに戦利品のような気分で万年筆やボールペン、シャープペンシルを買い求めた。もう訪れることのなくなってしまったイタリアの旅、その日々を筆記具一本一本が写真などよりもずっと多く蘇えらせてくれる。

現在手元にある中で私が日常的に使っているのは、モンブランの万年筆(#149/これは岳父の遺品)、ボールペン(ル・グラン)と定番中の定番である。とどのつまり、筆記具界における第1ブランドのモンブランの書き味には、他のメーカーを寄せ付けない良さがある。

シャープペンシルは長年愛用しているカヴェコを先日伊東屋でメンテナンスに出した。万年筆、ボールペン同様モンブランのものを試してみたいが、手元不如意で(なにせ六万円以上もする)—

うーん、やはり断捨離には程遠いな。

 

 

編緝子_秋山徹