令和五年 白露
あぁ 栄冠は君に輝く_其の2
スモーキンブギ
姐や
白露_昼暖かく夜に冷えるこの時期は露が結びやすい。草の葉に結び、はらりと落ちてしまう水の玉、儚さが日本人の好みである。
この時期に日本中の野原に群れなして飛んでいたのが〝赤とんぼ〟である。
——夕焼小焼のあかとんぼ、負われて見たのは、いつの日か。
山の畑の桑の実を、小籠につんだは、まぼろしか。
十五で姐やは嫁にゆき、お里のたよりも、たえはてた。
夕やけ小やけの赤とんぼ。とまっているよ、竿の先。
童謡「赤とんぼ」は、1921(大正10)年三木露風の作詞によるものである。幼い三木露風が子守の姐やに負われて見た赤とんぼの姿を、郷愁とともに詩にした。
たった百年と少し前まで、貧しい家の子は早くから奉公に出て女中や子守として働き、十五、六で嫁に貰われ子をもうけた。現代では人権団体が大騒ぎしそうな風景が、当たり前のように日本にあった。たった一世紀ほど前まで。
そして今回のコラムも前回に引き続き、半世紀ほど前のある高校の実話である。
今年の夏の甲子園大会が始まってすぐのこと、病院の待合でふとテレビを見たら、甲子園のテレビ中継が流れていた。何気なく画面を眺めていて試合をしている高校の名前に目が止まった。私が放校になった後に通ったふたつめの高校の名前がそこにあったのである。
へぇー甲子園に出たのかと、帰宅して調べてみたところ、私が知らなかっただけで、今大会を含め春夏合わせて都合6回出場していた。昔は男子校であったが応援団に女学生もいて平成には男女共学になったとある。
あの冗談のような高校が——これから紹介するのは、私が17歳の時のこと、ちょうど半世紀前のノンフィクションである。
前コラムに記したように、私は自分のしくじりから高校を退学になった。慌てた親は全方位で受け入れてくれる高校を探したが、なかなか退学になった生徒を引き受けてくれる学校はなく。どんどん学校の程度を下げていき、最終的に全国の退学者を引き受けているというある高校に行き当たった。それが私が二番目に通うことになった男子高校である。
全国から退学者を受け入れるというのであるから、入学する前から程度があまりよろしくないのは分かっていた。この高校に関する噂には—入学した学生にアルファベットのAからZまで全て書ける生徒が半数しかいなかった。—次々に学生が辞めて(放校でなく自主退学)しまうので、卒業するのは入学者の数の半分ほどしかいないというのが、退学者を積極的に受け入れる理由らしい。—学校の敷地の半分以上は、ある教諭の一族(学校経営には関わっていない)の持ち物で、この教諭が絶対的な権力を握っている。—と、ここまで聞いていかがであろう。なかなか素敵な学校を想像してしまうであろう。
これまでは聞いた話で、実際に確認したわけではなく、あくまでも噂である。しかし、ここからは実際に私が経験したことで嘘偽りのない事実である。
「あっ、席どうぞ!」
12月1日付けで最初の高校を放逐された私は、年内にどうにかこの高校に潜り込むことができ、冬休み明け三学期の初日から登校することとなった。下宿先は遠い親戚の家である。
登校初日、学校までは電車に乗った。乗車する路線が通過する駅それぞれに市内の高校があった。私の通うことになった高校は、その路線の終点が最寄駅であった。
朝の通学ラッシュに辟易として仏頂面でつり革に掴まっていた私と、目の前に座る学生の目が合った。その学生は私の校章を見ると慌てて「どうぞ」と立ち上がり、私に席を譲った。「へっ⁉︎」何事かと思ったが、終点までまだまだ時間のかかりそうな私は、ありがたく席に座った。周りの席を見渡すと、我が高校の生徒ばかりが当たり前といった顔で座っている。
その高校の生徒と分かっていて席を譲らなければ後で厄介なことになる。そんな高校に通うことになったんだと自覚させられた瞬間だった。翌日からは車両の最後尾の、まわりに座席のないスペースに立つようにした。学校の名前だけで座席を譲らせる—そこまで堕ちたくはなかった。
最寄駅から学校までは長い一本道を歩く。片側に小川が流れ反対側には民家がぽつりぽつりとあった。歩いて15分ほどの道のりを、当校の生徒の群れがぞろぞろと歩く。みな学帽を片手に引っ掛けるように持ち、喉元あたりに掲げ、時より口に持っていく。学帽の中には火のついたタバコがあり、それを口に運んで吸うのである。ほとんどの生徒がそうしてタバコを吸っているため、一本道には煙がもうもうと棚引いている。
私も同輩から一本もらって初日より一服しながら登校した。こちらの校風には卒業まで素直に従った。やがて登校集団の後ろの方からパン!パン!パン!という音とともに「うわっ」「あひゃっ」「痛えっ」という叫び声が聞こえ、だんだんと近づいてくる。それは、同じく電車で通っている教師がスポーツ新聞を丸めてタバコを吸いながら歩く生徒の頭を片っ端からパカン!パカン!パカン!と叩きながら歩いているのである。叩かれた生徒は叫び声を上げるが、そのままタバコを吸い続ける。叩きながら進む教師もそれ以上何を言うでもない—これが朝の一本道の風景である。
そう、タバコを吸ったくらいでいちいち生徒を処分していては、この学校からは生徒が消えて無くなってしまうのである。電車通勤の教師にとっても朝の良いストレス解消の時間だったのであろう。
「先生、仮免です!」
そんな朝の喫煙集団の中に異様な姿の一団があった。ところどころに黒い油のシミのある白い円菅服(つなぎ)を着て、カバンも学帽も持たずに堂々とタバコを吸いながら歩いている。ストレス解消の教諭も彼らの頭は叩かないで通り過ぎて行く。
「あれは?」タバコをくれた傍の同輩に聞く。
「あ〜、あれな。自動車科の三年だよ」
「自動車科?」
「高校に自動車科って珍しいだろ。他の科の奴はどんどん辞めていくけれど、自動車科のやつらは辞めないな。卒業したらすぐそこらの整備工場で雇ってくれるから。自動車科の奴は三年になると実習で一日中自動車の整備やってんだ。それで着替えるのが面倒だってんで円菅服で登校するのさ。先生も何も言わねえし」
「いいね、楽で」
「だな」
この年、宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドの『スモーキング・ブギ』がヒットした。その彼らのステージ衣装が円菅服だったため、ファッションとして円菅服が若者の間で流行ったが、私が初めて円菅服の集団に遭遇したのは、その数ヶ月以上前のことだった。のちに、円菅服の衣装で『スモーキング・ブギ』を歌うバンドと、朝の円菅服喫煙学生集団の絶妙な符合がおかしかった。
一本道をT字路のドン突きまで行き、左に曲がれば学校である。右手のなだらかな丘に校舎が三棟と体育館が、左手には野球のグランドと運動場。その奥には学校が経営する自動車教習所があった。
そう、ここでお分かりだろう、この自動車教習所の車はすべて自動車科の生徒によって整備されるのである。この高校の強かさはそれだけではない。学校運営の自動車教習所のお客のほぼ100%が在校生である。三年生になる直前、つまりは自動車免許取得が可能な18歳前に学校から保護者にプリントが配られる。そのプリントには、在校生が学校運営の自動車教習所で普通免許を取得する場合は、他所よりは安く、なおかつ授業料に上乗せする方法で教習費を分割でお支払い出来ますよ、と書いてある。そしてほとんどの三年生がこのシステムを使い教習所に通う。不良は勉強は嫌いだが、車は大好きである。
三年生の新学期が始まると18歳の誕生日を迎えた生徒が次々に教習所に通いだす。彼らが教習で乗る車は、顔馴染みの自動車科の生徒の整備によるものである。基本的には授業時間外での教習であるが、外部の人間が来て行なわれる試験などは授業中でも構わず行なわれる。
「先生!」と授業中に突然手を上げるクラスメイト。
「なんだ〇〇」
「本日、仮免試験です」
「よし、頑張ってこい!」
頑張れよ、落ちんじゃねえぞ、という声援と冷やかしを背に教室を退出するクラスメイト。
この光景が三年生のクラスでは一年中繰り返される。
どうだろう、なかなかファンキーな学校ではないか。
学校の敷地内に自動車教習所を運営し、自動車科を設置して学生に整備させる。そして客もまた生徒である。学校は収益を上げ、自動車科の生徒は在学中に生きた整備の経験を積むことが可能となり。18歳となった在校生は安く分割で免許を取ることができる。まさに、皆が利益を得ることができる。全方向でハッピーである。学校の偏差値はとても低いが、なんと智慧の詰まった学校であることよ。
また、この学校の休み時間の教室では、あちこちで博打が打たれ、当時の高校生としては大金が飛び交っていた。私のクラスには滅法強い博打うちがいて、彼は稼いだ金が纏まると1週間から10日ほど姿を消してどこかに旅に出てしまうのだった。彼に博打について教えてもらったことがある「いいか、たとえば花札でオイチョカブをやるときは、それまで出た札、自分と他の奴の子の時の手札、親の時の手札、それぞれの相手の動作のクセや表情といったものすべてを頭の中に入れる。その上で勝負に出る時を見計らって大きく賭けたり引いたりするんだ。運で勝てるほど博打は甘かないぜ」と。特殊能力である、私には到底無理な芸当であると思った。〝放浪の博打うち〟彼のことは同級生ながら憧れた。
そして、この学校には「囲碁クラブ」があった。失礼ながらこんな学校にこんなクラブがと思ったら、なんと高校生の囲碁大会では常に上位に入賞する実力の、全国でも有数のクラブであるらしい。我がクラスにこの囲碁クラブのトップ2がいて、確かに彼らは他の生徒とは様子が違い不良っぽさは全くなかった。
では彼ら〝博打うち〟や〝囲碁打ち〟の勉強の成績が良いかといったらそうでもない。これが面白い点であった。人間にはそれぞれ異なる能力があって、お勉強だけで人間の出来不出来は決して計れないという、人生において割と重要なことをことを、ありがたいことにこの高校で学んだ。
よく社会や会社は優秀な一割の人間が動かしていると言う人がいる。自分では優秀な一割に属していると思っている(思い込んでいる)人に多い。しかし、断言しても良いが、これは考え違いである。実は、世の中は大した能力のない人と考えられている九割に支えられているのである。ビジネスにおいても経済・消費においても、この九割がいなければ一割は存在しえない。九割の支え・土台無くして一割は無い。
甲子園大会にしてもそうである。高校球児の九割以上は甲子園に出場することもない。出場校野球部でもスタンドで応援する者、ベンチ入りしても試合に出れない者もいるが、これら球児の全てに栄冠は輝くのである。
特別な能力がなくても、真面目に一生懸命働けば一軒家が買え、十分家族を養っていけた。その昔の日本には『サザエさん』一家のような家族が当たり前であった。
現在とどちらが〝豊か〟か、考えるまでも無い。
編緝子_秋山徹