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令和五年 穀雨

2023年4月20日 ~ 2023年5月5日

をとこもすなる

なーんにも起こらない

五風十雨

穀雨_晩春の雨は穀物の恵みとなり、じきに田植えの備えが始まる。

この時候に特化したものではないが「五風十雨/ごふうじゅうう」という言葉がある。五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降るという天候が順調であることで、世の中が平穏無事であることを現わす。

世が平和で安寧であるということが望ましいのは誰しも同じであるが、ある一方の安寧は他方がそうでないということなのか、最近の紛争を見て想う。今昔、特に隣国同士というのが根に深いようだ。

をとこもすなる

前回のコラムでは、桜から在原業平そして『古今和歌集』、その撰者であり歌集の仮名序(はじめに)で業平を酷評した紀貫之へと話が及んだ。さらに貫之の作である『土佐物語』について今回は述べると書いた。

で、読んだ。

恥ずかしながら、全文を読んだのは今回が初めてである。テキストとしたのは、林望の『すらすら読める土佐日記』である。現代語訳と解説がなければ、古典の素養のない私には、とうていスラスラは読めまいとこの本を選んだ。

感想、短い!
内容、なーんにも起こらない。

作品全体からして単行本の頁にして30ページにも満たない短さである_ご存知であったろうか。しかも、和歌を中心とした歌物語である。本当の日記かと見紛うほど筋書きに動きがなく、とても日記文学の白眉とは思えない。というのが正直な感想である。

しかし、作品の成立から今日に至るまで千百年以上もの間、日本文学史上重要な日記作品とされて遺っているということは、私には到底解らぬ奥深いものがこの古典には潜んでいるのだろう。多くの国文学者が研究の対象とし、今回のテキストの著者である林望も絶賛している。

『土佐日記』は、紀貫之が約五年間務めた土佐守・国司(現在の県知事のようなもの)の任期開けで土佐から京の我が家にたどり着くまでの五十五日間におよぶ帰京・船旅日記である。日記には五十七首の和歌が収められている。成立は承平五年(西暦935年)頃で、紀貫之自身が書いたとされている。

この平安時代中期、公の文章は漢文であり、ひらがなは女性が私的に使用する程度であったが、紀貫之は書き始めを「をとこもすなる日記というものを、女もしてみんとするなり」と作者を女性として仕立ている。『土佐日記』における漢字の使用はわずか41文字で、あとは全て平仮名の文になっている。

しかし、今も昔も文章は平仮名のみで書かれている方が解らない。現代文でも平仮名ばかりの文章は読みづらい、というご経験がどなたにもあるだろう。古典であればなおのこと、むかしの言葉を平仮名で書かれても珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)である。漢字を当てて初めてなんとなく理解ができる。流石に今回のテキストの原文には漢字が当ててある。

『土佐日記』のストーリーは他愛もない。土佐から京を目指す紀貫之一行は、年末も押し迫った十二月二十一日に出発し国分川を下る。年始正月を船上で迎えるが、時化で幾日も大湊や室津などの各港で留められて、ようやく鳴門海峡を無事渡り畿内に入ったのが一月末、二月の十六日無事に京の我が家へとたどり着く。と、ただこれだけである。先ほど記したように、なーんにも起こらない。

『土佐日記』のトピックは、荒天の海を呪い、海賊に怯え、鳴門海峡を恐れ、すんなり航行したらしたで変わらぬ景色にうんざりする。いざ京の我が家に戻ってみれば、隣人に管理を頼んでいたはずなのに荒れ放題の有様に嘆く。
と、この程度である。

唯一、国司任期中に亡くしてしまった幼い娘を〈悲しみ恋ふり〉歌を詠むのが心に残るが、別に船が遭難するわけでも、海賊に襲われることもなく、難所の鳴門海峡もすんなり無事通過するのである。時化で長い足止めはあったものの平穏無事な船旅なのである。日記の形を借りた物語というよりは、ノンフェクションの日記に和歌が盛り込んであると表現した方が良いだろう。

日記には、時化で足止めを食っている間の船上での宴会と酔客の和気藹々とした様子、酔った連中が酔いに任せて押鮎にキスをした〈押鮎の口のみぞ吸う〉とか、一行の行商の男が性悪女に色仕掛けで騙されて代金を踏み倒されたなど、しまいには正月十六日の沐浴の日に男女が船を降り浅瀬で沐浴をしてはしゃいだが、女陰〈鮑〉や男根〈老海鼠/ほや〉が丸出しであったなどというとても高尚とは言えない記述がある。

こういった内容からか、国文学者の折口信夫は『土佐日記』を「くだらぬもの」といい、正岡子規は紀貫之を「下手な歌詠み」と酷評している。

作中の和歌はもちろん著者紀貫之の作ではあるが、年端のいかぬ女児や素養のない男女が詠んだものとして、詠み人の程度に合わせ、わざと拙い〈下手な歌〉で詠んである。もちろん子規もそのくらいのことは分かっていると思うのだが—

それでは、『古今和歌集』の撰者であった紀貫之の歌人としての実力はいかほどであったのか、『古今和歌集』に収められた1,111首のうち在原業平の歌は30首、そして紀貫之の歌はなんと102首で撰ばれた歌人の中では一番多く歌が収められている。数は一番多いのだが、はて、皆が知る歌はとなると、すぐには浮かばない。

貫之の歌を調べるとさくら・花を詠った代表的なものに

さくら花 ちりぬる風の なごりには
水なき空に 波ぞたちける

人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の香に にほひける  (百人一首)

などがあったが、この歌の作者が

世の中に たへてさくらの なかりせば
春の心は のどけからまし

の詠み手、在原業平のことを『古今和歌集』の序文で「心余りて言葉たらず」とよく酷評できたなと思う。

しかし、『土佐日記』の二月九日の段では、淀川を上り京都を目前にした渚の院(現在の大阪府枚方市渚元町)を望んで、この場所で詠まれたとされる業平の「世の中に たへてさくらの——」を挙げて、ああー、ようやく戻ってきたのだな、という思いを表している。なぜ酷評した業平の歌を紀貫之はここで取り上げたのか。解説文に林望は紀貫之が歌人としての在原業平を敬愛していたと記している。すると酷評している『古今和歌集』の仮名序(仮名で書かれた序文)は何なのか。

序文の謎

在原業平(825—880)から遅れること41年で生を受けた紀貫之(866—945)は、業平が紀有常の娘を妻としているため実は遠い縁戚関係にある。当時隆盛を極めていた藤原氏に対し、在原家も紀家もその系譜から外れていたため、業平も貫之も歌人として名を成してはいても官位には恵まれなかった。もっとも業平の場合はその色恋のせいであることの方が大きいが。

不遇をかこっていた証拠に、貫之が土左守を命じられて土佐に赴いたのが延長八(930)年六十四歳の時である。当時にしてはかなりの老齢にして僻地への派遣である。現代でもこの歳で地方赴任は珍しかろう。加えて土佐任期中に、年老いてから授かった娘を幼くして亡くしているのは気の毒である。任期明けで京に戻ってからも、さしたる官位に就くこともなく十年後の七十九歳で没している。

「六歌仙・三十六歌仙」のひとりと謳われ敬愛もしていた業平をなぜ貫之は『古今和歌集』の序文で酷評したのか、前回のコラムで〈もっとも『古今和歌集』の序文は、柿本人麿と山部赤人を歌聖とし、二人以外の歌人達はたいしたものではなく、名を挙げるとすれば「六歌仙/僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主」くらいのものだというスタンスであるため、六歌仙の評もそれぞれ辛辣で、在原業平の酷評も褒められている範囲にあるようだ。〉と書いたように、業平だけではなく他の六歌仙に対しても、わざわざ撰び取り上げておいて貶(けな)している。

『古今和歌集』の序文には疑問がもうひとつある。紀貫之が書いた仮名書きの「仮名序」の他に、やはり紀家の紀淑望(生年不詳—919/きの よしもち)が漢文で書いた「真名序」があり、「仮名序」が巻頭に「真名序」が巻末に記されていたとある。しかし、問題はその内容である。「仮名序」と同様「真名序」も六歌仙を酷評しているだけでなく書いた人間が違うのに内容がほとんど一緒で、違いは仮名書きか漢文かだけである。あたかも元々の原稿があり、それを紀貫之が仮名で紀淑望が漢文で書いただけではないか、本人達の意図するところとは違う記述ではないか、という疑問である。

勅撰和歌集である『古今和歌集』は醍醐天皇の命により編纂された。さらばこの序文は醍醐天皇の命なのか、時の為政者・藤原時平によるものか、歌集の成立が延喜五(905)年、時平の政敵・菅原道真が太宰府に左遷されたのが昌泰四(901)年、為政者としての時平が隆盛を迎えている時であることを思えば、何かの意図をもってこの序文原稿が書かれたのではないかと邪推してしまう。

『古今和歌集』の編纂時、紀貫之は三十八歳で紀淑望は年齢不詳であるが、時の権力者から圧力をかけられれば、他人の文章の序文を我が物として出すほかに術はなかったのだろう。

これについて少し調べてみたが、真相はわからなかった。誰か古典に詳しい方がいたら教えてもらえぬか。

編緝子_秋山徹