令和五年 立冬
大番狂わせ
阿修羅のごとく
ブライトン・ミラクル
立冬_字面だけでなんだか寒々しく寂しげな心持ちとなる時候である。
寒さに部屋で縮こまっているのは親爺のみで、窓から覗く多摩川の河川敷では球児が走り廻る。
夏休みにはほぼ毎日練習していたが、秋口になって週末と平日は週に二日か三日ほど夕方に練習しているだけなので、近隣の中学生・シニアのクラブチームであろう。
体も比較的小さく何と言っても声出しの声色が甲高い。
その向こうで練習している高校のラグビーチームと比べていると体格の差が気の毒なほどある。しかし、陽が沈み真っ暗な中、2機のライトの灯火で練習する姿を見ると、彼らもまたやがて大きくて逞しい体躯を手に入れるに違いない。
ラグビーといえば、フランスで開催されていた第10回W杯が10月の28日、12対11の激闘の末〈南アフリカ〉の優勝で幕を閉じた。
決勝戦の〈ニュージーランド・オールブラックス〉と〈南アフリカ・スプリングボクス〉の決戦は、1世紀にわたるライバル関係にある両国にふさわしい戦いであった。どちらが勝ってもワルードカップ制覇4度目の最多優勝国となるものだった。試合は幻のトライと二つのゴールキックのミスが勝敗を分けた。
日本代表の戦いは、予選リーグで共に準決勝まで進んだ〈イングランド〉と〈アルゼンチン〉に善戦したものの破れ、決勝トーナメントには駒を進められなかったが、観ていて面白い試合をしたと思う。
私がラグビーの試合中継を観るようになったのは、高校時代の体育の教師がラグビー部の顧問をしていて、日本選手権にあたる「日本ラグビーフットボール選手権大会」のビデオを授業中によく観せてくれたからである。血気盛んな高校生にとってラグビーというスポーツは血沸き燃える競技に思えたが、授業でスクラムを組まされた時、前の人間の腰と腰の間に頭が入り挟まって死にそうに痛かった思いをしてからは、ラグビーはやるものではなく観るものと私は心の中で決めた。
私が子供の頃の1960年代前半のラグビー界を牽引していたのは地元北九州の〈八幡製鉄〉であったが、その後、八幡製鉄の流れを汲む〈新日鉄釜石〉や〈神戸製鋼〉へと覇権は移った。現在は〈サントリー〉〈パナソニック〉〈東芝〉といったあたりか。
世界での日本ラグビーのポジションというと、アジアでは圧倒的な強さを示すが、プロリーグのある欧州やオセアニア、南米の強豪国には全く歯が立たなかった。1987年に始まり4年に一度開催されるW杯には全大会に出場しているが、2011年の第7回大会まで〈ジンバブエ〉に1勝、〈カナダ〉と引き分けが2回あるのみで、あとは連敗に次ぐ連敗であった。
特に強豪国との対戦で〈ニュージーランド〉には1995年第3回大会145対17/2011年第7回大会83対7、〈イングランド〉1987年第1回大会60対7、〈オーストラリア〉2007年第6回大会91対3など、バスケットかと思わせるほどの得点を奪われコテンパンにやられた。
さすがに、ニュージーランドに三桁得点を挙げられて負けた1995年あたりから、ラグビーW杯の中継を観るのをやめてしまった私であった。地力の差があるため仕方のないこととはいえ、応援するチームがボロ負けするのを見るのは辛いものだ。この地力差は当分、いや、今後縮まることは無いのではないかという思いから観るのをやめてしまった。
ラグビーW杯中継を観なくなってしまってから15年以上経ったある日。普段あまりテレビを見ない私が、本当にたまたまチャンネルを選ばすテレビを点けた。その画面に映ったのはラグビーW杯中継〈南アフリカ〉対〈日本〉後半30分を経過したあたり、南アフリカがペナルティゴールを決めたところだった。画面に映し出されたスコアを見てまさに二度見した。32対29、〝えっ〟と思わず声が出た。さらに数的優位もあって〈日本〉が行け行けで〈南アフリカ〉を圧(お)している。
終了間際、南アフリカの反則でペナルティを獲得する。ペナルティゴールを選び決めれば3点追加の32対32の同点で試合は終わる。この場面で日本はスクラムを選択して5点追加のトライを狙った。これには痺れた。世界の最強国相手に勝つことを選んだのである。今までにお目にかかったことのない場面だ。(この時、ヘッドコーチのエディ・ジョーンスはペナルティゴールを指示したのにも関わらず、選手が意に反しスクラムを選択したことに激昂したという)
結果は、〈日本〉が見事トライを奪い32対34で勝利した。まさに世紀のジャイアントキリング・大番狂わせであった。この2015年9月19日の試合は、のちに試合開催地の名から「ブライトンの奇跡」と呼ばれ、2019年には『ブライトン・ミラクル』という題名でオーストラリアで映画化もされた。
たまたまスイッチを入れたら、世紀の場面だったというのは誰にでも経験があるだろう。これがテレビという媒体の数少ない利点であるかなと思う。ラグビーW杯以外で強く印象に残っているのは、2006年トリノ冬季オリンピック大会のフィギュアスケートで、荒川静香が金メダルを採った演技を観た際も同じようなタイミングであった。真夜中にトイレに起き、ぼーっとした頭でそういえばフィギュアは今日だったなと思い出して、テレビを点けるとまさに「トゥーランドット」の音楽が流れ荒川静香の演技が始まる瞬間であった。他にも幾つかあったはずだが、寄る年波のせいですぐには思い出せぬ。
思いがけず目にすることのできた特別な瞬間は、人を幸せにし、人生の贈り物をもらった気分にする。美しい絵画を観た時、心に残る演奏を聴いた時などと同様、人として豊かさを感じる瞬間である。金や物はあの世に持っていけないが、こういった瞬間の感動は持っていけるような気がする。
ラグビーW杯で〈日本〉が〈南アフリカ〉に大番狂わせを演じたその半年前、ある年老いた元日本代表ラガーマンが静かにこの世を去っていた。原進(はら すすむ)スクラムの要プロップのポジションで日本代表キャップ17を数え、1976年には日本人として初の世界選抜メンバーに選ばれたラガーマン。ラグビーを引退してからはプロレスラーに転向し「阿修羅原」というリングネームでタフネスな試合をして人気があった。
私がパブレストラン「銀座スコッチバンク」に勤めていた頃、当時タッグを組んでいた天龍源一郎さんと何度か一緒に来店された。リング上のスタイルとは違って、静かに酒を傾ける人だった。
阿修羅原・享年68歳、私の年齢がますます近くなった。
編緝子_秋山徹