令和五年小雪
ここはどこですか
親爺の咆哮
キャベツ好き
小雪_多摩川の向こうに鎮座する富士山の頂が白い。やがて下々の山にも雪が降りてこようという頃である。
旧暦の十月の別名は〝小春〟、寒い日が続く中にふと陽気の良い日があると、これを〝小春日和〟と呼ぶ。英語でいうところの〝インディアン・サマー〟である。
ところが、この十一月の初旬の「立冬」前後には、春どころか夏日が三日も続いた。
暖かい陽気が続くと能天気な親爺はふらふらと表に出たくなり、近くの遊歩道から多摩川の土手を徘徊した。(決して痴呆性のものではない_多分)
インディアン・サマーには、〈人生の晩年に平穏で閑かな生活を過ごす時〉という意味もあり、自分にとって今がそうかしらんと想いながらの徘徊もまた楽しと、しかし、足元は怪しく歩いていた。
と、この時、遊歩道に入ったあたりから、一頭の紋白蝶(もんしろちょう)が〈なぜ蝶々は一頭・二頭と数えるのだろう。調べたが分からない_どなたか〉、私の真横をぱたぱたと翔んで付いてくる。アゲハ蝶などの大きな蝶々がゆったり翔ぶのとは違い、小さな羽を小刻みに一生懸命に動かしておるのが健気で可愛い。
遊歩道を五十メートルほど歩いて土手に上がる手前で、ひらひらと待っていたもう一頭と一緒になり、土手を行く私の前を二頭が交差して舞いながら先導する。不思議な気持ちで歩みを進めているうちにさらに百メートルほどが過ぎ、夕飯の買い出しのため土手を左に曲がったところで二頭は消えた。
夕飯の食材を買い求め同じ道を辿ったが、二頭は影形も見えなかった。
今より10年も若ければ、蝶たちをうら若き女性に擬人化し、お目出度く恋の予感と捉えただろうが、悲しいかな十年歳をとっている今では〝すわ、お迎えか〟と勘った。しかし、まあどうにか今日までは生きている。
荘子の「胡蝶の夢」ではないが、誰か知人・友人の想念が紋白蝶に姿を変えて挨拶に来たかとも考えたが、二頭というのもなんだか違う気がする。
蝶々というのは、古より人に特別な感情を抱かせるようである。
飛鳥・奈良時代の大化の改新(六四五年)の前後には、あげは蝶の幼虫を〝常世の神〟として崇める信仰が東国(静岡あたり)から流布し都まで届いたという。〝常世の神〟を大切にすれば、富と長寿を与えてくれるというので人々は私財を投げ打ってあげは蝶の幼虫を採り、安置したとされる。この熱狂的な信仰は、やがて朝廷により禁止され治ったらしい。
私たちの世代が子供であった時、キャベツの葉の裏には結構高い確率で青虫がくっついていたり、虫食いの跡があった。この青虫が紋白蝶の幼虫である。紋白蝶の幼虫はアブラナ科の植物が好物で、菜の花やキャベツを好んでよく食べるため、キャベツの葉に付いたまま家庭の台所に届いていたのである。アメリカでも紋白蝶のことを「キャベッジ・ホワイト/Cabbage White」や「キャベッジ・バタフライ/ Cabbage Butterfly」と呼ぶという。
しかし、最近では青虫が付かないようにと、農薬が土中やキャベツに散布されて使われ、台所で青虫を見ることはなくなった。我々は青虫も喰わないものを食べさせられているのである。流石に、その日の買い物カゴの中にキャベツは入れなかった。
ここで「胡蝶の夢」に少し触れると、荘子がある時、夢で胡蝶となり心ゆくまで空をひらひらと飛んでいたが、夢から覚めると我が身に戻っていた。しかし、夢か現か幻か、〝我が身の本当の姿は胡蝶であるのか、荘子であるのか、定かでなく朧げである〟という一節が『荘子・斉物論(せいぶつろん)篇』にある。ことほど左様に現(うつつ)というのは危うく移ろいやすいものであり、また人生は儚いものという譬えとなった。
これが「胡蝶の夢の百年目」と、晩節に己の人生を振り返えると夢のように感ぜられることや、死というものを感じるような歳になってもまだ未熟で、無為の人生を送ってしまったという後悔の念を表す言葉となった。
江戸初期の俳人・松永貞徳の
——ちる花や 胡蝶の夢の 百年目
のように使われる。
などなどを、つらつらと考えながら老荘の「小事にこだわらず、自由に穏やかに」だな、と悟ったようなふりをしながらマンションに戻った私は、共用板の張り紙を見て、
「ふざけるなっ」と怒鳴った。
歳神はどこに
最近歳とって抑制が効かなくなっているのか、胸に浮かんだ想いを呑み込めず、実際に言葉として発してしまうことが多くなった。この場合もそうであったが、周りに人がいなくて幸いであった。
張り紙には、管理組合理事会で協議した結果、管理費の経費削減の観点より、今年度の年末は〝イルミネーション〟と〝門松〟を試験的に廃止することになった、とあった。
門松を置かぬことの是非を、居住者に問うというのであれば理解できるが、試験的とはいえ、いきなり廃止を理事会で決めたというのには呆れた。
正月は、年が代わり新年になったというだけではない。暮れから準備をして元旦に歳神を迎え、15日の左義長・どんと焼きで送り出すまでの期間、歳神が滞在する期間を正月と呼ぶのである。歳神がやって来る際にまず目印・依り代(よりしろ)となるのが門松である。
やってきた歳神を祀る依り代として門木を飾る日本の習慣は古く。当初は松に限らず椿、榊、柊などの常緑樹が使われていたが、これが松となったのは平安後期からといい、それは、平安後期(180年前後)に編纂された、後白河上皇の勅撰和歌集『梁塵秘抄』に
——新年春来れば 門に松こそ立てりけれ
松は祝ひのものなれば 君が命ぞ長からむ
とあることから窺える。
門松が現在のような、松と竹を使った寸胴の形となったのは、ずっと下って江戸時代中期と言われ。地方によって形も変わる。江戸時代、門松は十二月二十八日に立てられ、一月の人日の七日には取り払われていた。現在も同じ要領である。
一休宗純の作とされる狂歌に
——門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
がある。正月を寿ぎ毎年置かれる門松も、別の見方をすれば冥土・死に一歩一歩近づいているという証であるので、めでたいばかりでもない、ということだろう。
なるほど禅僧一休らしい狂歌と言えるが、一里塚自体が江戸時代に入ってから作られ始めたものなので、江戸中期、この狂歌を紹介している平賀源内あたりの作ではないかと言われている。江戸稀代のコピーライター山東京伝あたりの作でもおかしくない。
しかし、毎年門松が飾られてこそ成り立つこの狂歌であるが、まさかそれすら無くなってしまうとは、一休さんも吃驚である。
グローバリズムは、己の国と民族の伝統文化を捨てることでは成り立たない。関わる相手の伝統文化とメンタリティを知ることから始まるものと私は信じている。黒沢明も小津安二郎も宮崎駿も、そして大谷翔平も、日本の伝統文化とそこから導かれる日本人特有のメンタリティが認められ、愛されているのである。
たかが門松と言うなかれ、人日、上巳の雛飾り、端午の鯉のぼり、七夕の笹、重陽の菊という五節句の飾りさえやらなくなった今日、正月の門松を形として目に遺すことは大切である。道は形の繰り返しから入る。
せめて正月に門松くらい飾らねば、一体我々はどの国で暮らすなんという民族かわからなくなってしまう。
「胡蝶の夢」のタオやかな気分から一転、頑固爺いの愚痴へと変わってしまった。
編緝子_秋山徹