令和五年 小寒
お茶を濁す
江戸に正月を迎える
小寒_寒の入りである。
「小寒の氷、大寒に解く」とあるように、小寒に水が凍ったのが大寒には解けると感じるほど、大寒よりもかえって小寒の方が寒さを感じることがあるというものだが、実際に小寒の方が気温が低いというよりも、本格的な寒さを迎えるぞという気構えが、寒さを一層余計に引き立たせるのだろう。
季節や物事の始まりに人は特別なものを感じる。
正月・元旦の年の始まりはまた格別であるのは、年中行事の中でも圧倒的に正月に行なう行事が多いことでもそれが知れる。
今回は、江戸の人々が正月を迎えるにあたり行なっていた行事・しきたりについてつらつらと記し、お茶を濁したい。
と、最初から躓くが、この「お茶を濁す」が以前から気になったので早速調べた。言葉の意味としては「その場を適当に取り繕う」であろうが、澄んでいるお茶を〝濁す〟のが、なぜ取り繕うことになるのか、ずっと不思議に思っていたが、これがあっけなく氷解した。
「お茶を濁す」の〝お茶〟は、茶道の抹茶点前のことであり、お点前の心得がない人間が、適当に混ぜ(濁す)てその場を誤魔化す様を表したものとあった。
私は、毎朝お茶を点てて飲むが、まさにこの濁している状態である。とすると私及び至極適当なこのコラムにはピッタリの言葉ではないか。
ということで、江戸の正月準備のしきたりについて、これからお茶を濁したい。
煤払い
文字通り大掃除をして煤を払い、家を綺麗にして年神様を迎える準備をする。年神様という大切な客を迎える訳なのだから、この役割の中心を担うのは一家の主人で、門松を立てたり、注連縄の飾り付けや鏡餅を供えた。年末の大掃除は男の役割なのである。細君任せにしてはならないのは、年神様は女の神様とされているから余計である。
江戸時代、将軍家の煤払いの日は十二月の十三日と決まっていた。これは、四代将軍徳川家綱が定めたもので、それまで二十日であったものが三代家光の忌日(命日が四月二十日)にあたるため変更された。旗本および諸大名もこれに倣い、やがて庶民にも定まった。
この十三日にあわせて十二月も十日頃になると、江戸の半ばまでは掃除用の煤竹売りや草箒売りがやってきたが、半ば以降は町辻の露店で売られるようになった。
煤竹は、細い竹の先に葉を残したもので、今で言う長めのハタキである。
町筋の商家では昼間は商売が忙しいため、夜に煤払いをするところが多かったという。煤払いには普段出入りする職人や鳶、植木屋の人足が手伝いに来て、彼らには祝儀や手拭い、蕎麦、酒肴が振舞われた。
また、煤払いには胴上げをする習慣があり、「禧(めでた)禧の若松様よ、枝も栄えて葉もしげる、おめでたやサァーサッサ、サッササー」と唄いながら煤払いに居合わせた人を誰彼構わず胴上げしたという。楽しそうだが、今には影も形もなく全く伝わらなかった習慣である。
なかなか面白いのは「吉原」の煤払いで、十二月の頭頃までには、煤払い・大掃除の手伝いにやってくる職人などに配るために各花魁が自らの名前を染め上げた手拭いを用意した。
吉原の煤払いも巷と同じで十二月十三日もしくはその前後で行なわれた。当日は煤払いに参加する内外の者たちが楼主のもとに集まり、挨拶があってから皆にそれぞれ花魁の名入り手拭いが配られて掃除が始まる。
外から集まる職人は畳屋、建具屋、経師屋、植木屋などかなり大勢な人数となるが、みな刺子半纏※を羽織っている。
※刺子半纏は、細かい縫い目で布を合わせて縫い、保温性と堅牢度を増したもので、今では柔道着や剣道着に見られ、当時は藍染の紺色がほとんどであった。
この職人たちに混ざって、花魁の馴染みの通な客が掃除装束の刺子半纏に身を包んで紛れ込んだという。もちろん彼らは自家では掃除をしたこともないようなお大尽たちで、この時も自家の出入りの職人を引き連れてきて、馴染みの花魁の部屋の実際の掃除は職人たちがやり、自分は掃除のふりをするだけである。花魁も誂えた手ぬぐいで姉さん被り、これまた新調した派手めの浴衣を埃除けに羽織って掃除をする。この普段では見られぬ花魁の姿を見て贔屓客は喜ぶのである_いつの時代も男はこの程度の馬鹿なことが好きである。
楼主も心得たもので、贔屓客と気づいていてもわざと客扱いせずに、職人たちと同様に昼飯の蒸籠(せいろ)そばを振舞ったり、手伝いの礼の心付けを渡したりする。客もこの扱いを洒落として喜ぶのである。
妓楼の煤払いが終わりに近づくと、楼内の者へのご祝儀が配られるが、この配り方が巷同様の胴上げである。まず楼主、楼主の妻、楼主の子、格の高い花魁の順に、果ては飯炊きの者まで楼内に働く者全員が必ず胴上げされてから渡された。幼い禿(かむろ)などは担がれて運ばれるのが怖くて泣きながら逃げ廻ったそうだ。
煤払いが終わった頃には、花魁にも酒肴の御酒が入りほろ酔いである。またこの日の花魁の出で立ちは髪結いや衣装も普段よりは平素なものとなり、その姿と酔いでしどけない風情が良いと、煤払いの贔屓客とは別に、わざわざこの日を狙ってくる馴れた客もいたらしい。まったく世の女性が鼻で笑う声が聞こえそうである。
餅搗き
六十年ほど前、私が幼少の頃はまだ家で餅を搗いていた。祖母と母親が台所で蒸したもち米を庭の木臼に入れて祖父と親父が杵で交互に搗いた。搗き上がったばかりの熱々の餅をはふはふと餡子や大根おろしに絡めて喰った。はっきりと記憶に残る楽しい思い出だ。現在の日本で自家の庭先で臼と杵で餅搗きをしている家族をご存知だろうか。
江戸の頃の餅搗きは、十二月十五日頃から搗きはじめたという。自宅で搗かない場合は、〝賃餅〟もしくは〝引きずり餅〟のどちらかに頼んだらしい。
〝賃餅〟は菓子屋が搗くのだが、人気の菓子屋は正月用の菓子づくりで餅どころではないので、そこそこの格下の菓子屋が請け負うことになる。
〝引きずり餅〟は鳶の職人が請け負い人足を雇って搗くもので、依頼主の家の前で威勢良く搗いた。近所にも見栄え良く、味も賃餅よりは美味かったので、こちらの方が人気があったという。十五日以降は連日連夜の忙しさで、特に暮れも押し迫った二十二、三日から大晦日までは、毎夜徹夜で搗いたという。この様子は『江戸府内絵本風俗往来』という書物に「大晦日夜明けまで、餅搗く杵の音、江戸四里四方に絶えず」とあることから知れる。これが慶応(一八六五から六八)始めの頃までの江戸の暮れの風景であったという。慶応といえば明治の直前、坂本龍馬が暗殺され、夏目漱石が生まれた頃である。ほんの百五十数年前なのか遥か昔なのか。ほぼその中間あたりで生まれた親爺にとっては誠に微妙である。
門松
餅搗きの次は門松である。古代、日本人は神を天から招くために木の枝を使ったが、この神が降臨する枝を〝依り代(よりしろ)〟と呼ぶ。依り代には、まさに神の木と書く榊(さかき)を始め、竹、松、椿、柏、つつじなどの常緑樹の枝が使われた。
門松は年神様の依り代として立てられるもので、本来、門(かど)とは家の建物の前の干し場を言い。当初門松はこの干し場に一本立てられていたのが、やがて江戸の頃に家の門(もん)の左右に一対が立てられるようになる。玄関に向かって左側を雄松、右側を雌松と呼ぶ。
門松の歴史も古く、室町時代の一休宗純が「門松は、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と詠んでいることからもそれが知れる。
門松は十二月の二十八日に立て、一月の七日に仕舞う。二十八日に立てるのは二十九日を「苦(九)立て」と嫌い、三十一日は「一夜飾り」と忌んだためである。もっとも、一般的な庶民の家は、門の両側に松の枝を打ち付けただけの簡素なものだった。
年神様を招くために門松を二十八日に立て、送り出すために十四日夜もしくは十五日に下げた門松を左義長〝どんと焼き〟で焼いた。正月とは年神様の滞在期間に他ならない。
門松の形は、関東と関西など地方によって違い、また、家々によっても違うなど、様々な形があったようである。通りの狭かった吉原は店の入り口の門に立てるのではなく通りの中央に松を背中合わせにして飾ったという。
と、「煤払い」「餅搗き」「門松」と代表的な正月迎えを取り上げたが、なんとも楽しそうである。昔の人にとって年中行事とは、季節ごとの大切なしきたりであると同時に、待ち遠しい娯楽でもあった。
現在、暮れから正月の年末年始にかけて海外に行く人も多いが。せっかくやってきた年神様の立場はどうなるのであろうか。
同じ年末でも、かつて大晦日の夜イタリア・ナポリでは最大限の注意を持って表の通りを歩かねばならなかった。なぜなら、大晦日の夜だけは、必要でなくなったものを窓から捨てても良かった。だから、空からいらなくなったテレビや冷蔵庫、はてはタンスが落ちてくる。こちらはすこぶる危険であったとナポリの友人から聞いたことがある。
参考文献:『吉原夜話/宮熨斗古登子』『江戸年中行事図聚/三谷一馬』『江戸吉原図聚/三谷一馬』『日本人のしきたり/飯倉晴武』