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令和五年 春分

2023年3月21日 ~ 2023年4月4日

灰汁の抜けた人

色追い人

春分_太陽が真東から昇り、真西に沈む春分、太陽が沈む真西の彼方に極楽浄土があると古の人は信じた。

春分は彼岸の中日でもある。「寒さ暑さも彼岸まで」と云われるが、桜の咲いている最中に寒さが戻る〝花冷え〟となることも多い。これを「毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは」と正岡子規は詠んだ。

東大寺 修二会

例年通り、三月一日から十四日までの二七ヶ日夜(二週間)の間、修二会(しゅにえ)が、東大寺の二月堂において執り行われて、奈良に京に春が訪れた。

修二会は、遡ること天平勝宝四(752)年の奈良の大仏・盧舎那仏の開眼供養の年から一度も途切れることなく連綿と続いてきた仏教行事であり、令和五年はめでたく1272回目を迎えた。

修二会が始まった752年と云えば、吉備真備(きびの まきび)が遣唐使として中国に渡った年であり、翌753年には鑑真和上が辛苦の旅路の末に日本に到達して、その翌年の春に東大寺に入っている。

修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)法要」と云う。十一面悔過とは、われわれが生きる上で日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味する。

修二会が創始された古代では、天災や疫病や反乱は「国家の病気」と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた。

古来、この行事は旧暦の二月一日から行われていたため「二月に修する法会」という意味で「修二会」と呼ばれるようになった。

修二会で良く知られるのは「お松明」で、期間中の三月一日から三月十四日の毎日、二月堂に上堂する練行衆(僧)の道明かりとして欄干に松明が灯されるが、特に十二日の〝籠松明〟は有名で、欄干から流れ落ちる炎は幻想的である。「東大寺公式HP」より参照

3月12日の籠松明/撮影:岡田克敏

艶紅の椿

修二会は、まず十二月十六日(修二会を創始した良弁僧正の命日)の朝に、翌年の修二会を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる十一名の僧侶が発表され、翌年二月二十日から別火(べっか)と呼ばれる前行から始まる。

練行衆は俗界を断ち心身を清めて精進し、火も別にして神聖に熾すため、この前行が〝別火〟と呼ばれる由来となった。別火には試別火(ころべっか)と惣別火(そうべっか)と呼ばれる行があるが、この中に、〝椿の造り花〟がある。修二会の期間、二月堂の十一面観音菩薩の前には、〝白い餅〟と〝南天の実〟〝椿の造花〟が飾られるが、この椿の造花は、紅花で染められた和紙を使って練行衆の手によって造られるのである。

この紅花染の和紙を東大寺に長年収めているのが、令和元(2019)年に亡くなられた吉岡幸雄先生の工房「染司よしおか」である。吉岡先生亡き後は娘さんで六代目となった吉岡更紗さんが引き継いでいらっしゃる。
吉岡先生は、修二会の紅花染の和紙について、その著書の中に次のように記されている。
「東大寺修二会の椿の花びらは、京都黒谷のしっかりした手漉楮紙(てすきこうぞし)に、艶やかな艶紅(ひかりべに)を、刷毛で引き染めにし、四、五回塗り重ねて、深紅に染めあげる」
艶紅で染め上げる/撮影:岡田克敏

練行衆の手によって造られた椿の造花/撮影:岡田克敏

洒脱な染色家

染色家で染織史家でもある吉岡幸雄先生は、江戸時代より続く染色工房「染司よしおか」の五代目である。嫡男ではなかったので当初家業を継ぐ予定はなく、早稲田大学を卒業後は出版社に勤められ、その後自身で美術出版社「紫紅社」を設立されたが、父である先代の四代目が亡くなったのを機に工房を継ぐこととなった。以降、先代からの染職人の福田伝士さんと二人三脚で工房を営まれてきた。

五代目を継いだ時から、それまでの化学染料を含む全ての染料を使った染めを止め、昔ながらの植物染料を使った日本の伝統色の再現を福田さんと実践した。染めの材料としては割高となる植物染料は、その確保も含めて〝商い〟としてはかなり苦労されたという。

吉岡先生は、工房と並行して染織に関する執筆活動も精力的に行なわれ出版された著書も多く、また、講演活動やテレビ出演などにも精力的に熟された。

私が先生と関わらせていただいたのも、着物の雑誌への寄稿をお願いにあがったのが始めである。先生と私の共通の知人であった写真家の岡田克敏さんにご紹介いただいたのがご縁だった。

先日、吉岡先生が亡くなられてから出版された本を二冊いただいた。岩波書店の『失われた色を求めて』と世界文化社の『吉岡幸雄の色百話』である。

そのうちの一冊『吉岡幸雄の色百話』は、日本航空の会員誌『AGORA』に2009年から亡くなられる前年の2018年にかけて「男の色彩」として百回連載されていたのがまとめられたものである。

私は先生の連載が続いている間、『AGORA』が毎月手許に届くと、まず連載頁「男の色彩」を読んでから切り取ってスクラップしバインダーに保存していた。百回で連載が終わってしまったときは残念であったが、それが先生の没後一冊の本になったのであるから戴いたときはこの上なく嬉しかった。

その『AGORA』も、この2023年3月4月合併号が紙で印刷された冊子として手許に届く最終版となり、これ以降はウェブ上で読むデジタル版のみとなった。時代の流れであろうが、長年愛読していた紙の媒体がなくなってしまうのは寂しい。

洒脱な先生の一面が垣間見える一文が「男の色彩」の中に「男の『お預け徳利』と盃」と題してある。
「酒飲みである。酒を飲むことを禁じられたら、どうしようかと、思いつめるほど。齢七十を超えた今も、休むことなく飲み続けている。——中略——愛用する青磁風の磁器は江戸中頃過ぎの徳利かと思うが、よく見ると、清時代の唐物で、官窯でなく、地方窯の器かとも思われる。いずれにしても、大振りでどっしりとした色と形が、私の好みである。これを祇園にあるカウンター割烹の「喜久政」に預けていて、私が行くと、これで熱燗を汲み出してもらい、心地よく酔っているのである。料理人との呼吸で成り立つ、呑み助の密かな愉しみといえようか」

年齢と共に世に長けて洗練された佇まいを〝灰汁の抜けた人〟と云うと、吉岡先生のある文章の記述でみた。私にとって吉岡幸雄先生は、まさに〝灰汁の抜けた人〟であった。溢れる知性と知識がありながら、さっぱりとしている人、目指そうにも私にはハナから無理な話であるが、人生でそういった人には滅多にお目にかかれぬことが救いか。

 

吉岡幸雄先生のドキュメンタリー映画『紫』予告編

編緝子_秋山徹