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令和六年 立夏

2024年5月5日 ~ 2024年5月19日

屋根より高い

古文は無駄ですか?

見当たらぬもの

立夏/端午の節句_次第に夏めいてくる時候である。緑が萌え、快晴の日が多くなる〝五月晴れ〟の季節となった。

ゴールデンウィークに入って保育園が休みとなったため、多摩川土手からいつもの園児の遊びまわる歓声が絶えている。「子どもの日」にいつも聞こえる幼児の声が届かぬのは、なんとも寂しい心持ちになる。

端午の節句には、〝鯉幟(こいのぼり)をたて、菖蒲湯に入り、粽や柏餅を食べる〟というのが常套文句であった。菖蒲湯や粽・柏餅は今でもどうにか残っているが、鯉幟に関しては我がマンションから辺りを見渡すに、ここ数年、いや、それ以前から上げている家をとんと見かけなくなった。保育園や幼稚園、小学校が複数ある住宅街であれば、七歳以下の男の子がいる家庭も多かろうに、である。

これは、マンションは仕方がないとして、東京の一軒家に十分な広さの庭がないことが原因だろうが、広い庭を持つ高級住宅街にも鯉幟用の竿が立っている家は稀である。

しかし、鯉幟が上がらぬ理由は庭の狭さだけではあるまい。生活様式の変化にともない、こういった節句や年中行事の儀礼や〝しきたり〟といったものが無くなりつつある。節句や行事というものは子供の頃から親しみ、年を経ることで習慣として身に付くものである。生まれついた環境というものが、日本人としての民族性を培うのである。その意味において、両親もしくは父親または母親が日本人でなくとも、幼少の頃から日本でその風習の中で育ち、それが身に染みている人は、その外見に拘らず全くの日本人であるといえよう。

逆に、日本人の両親のもと、〈正月の松飾りや鏡餅・屠蘇、二月の追儺・節分の豆まき、三月上巳の節句の雛人形、五月端午の節句の武者人形・鯉幟、七月七夕の笹かざり、仲秋の名月の団子、春秋彼岸の牡丹餅や御萩、年末の門松などなど〉は、話に聞くだけで実際の身の回りにはない環境で育てば、どの国の何人か分からぬ人間になるのではないだろうか。(現実にこういった環境で育つ子供が想像以上に多いのではないかと親爺は心配である)

江戸時代の年中行事を紹介する書物に次のようにある。「端午の節句には、どの職人も節句休みをとりました。この日から武家では礼服が帷子(かたびら)になり、町家では単衣(ひとえ)を着ます。家々の軒端には菖蒲や蓬(よもぎ)をふき。菖蒲酒を飲みました。また、武家町家の別なく、ほとんどの子供は男女ともこざっぱりした着物を着て各々の師の家に行き、祝賀を述べてから菖蒲打ちをして遊んだものです。七歳以下の男子のいる家は武家も町家も屋外に幟を立て、武者人形を飾りました——以下略」
いかがだろうか、〝鯉幟をたて、菖蒲湯に入り、粽や柏餅を食べる〟どころではない。大人も子供も端午の節句にはやることがいっぱいあったのである。無くなってしまったことのなんと多いことよ。

かつて坂口安吾が「全ての日本人の中に確かなる日本人の自覚と精神性があるのならば、本当に必要であれば金閣寺を駐車場にしてしまっても構わない」という趣旨のことを何かの随筆の中に書いていたが、これはそれほど形というものがなければ、日本人という確固たる意識と存在の在り方を持ち続けることは難しいと逆説的に述べていると思う。

文化というものは一定の形あるものが必要であろう。それは建築物であったり、絵画、書物、音楽、舞踏や工芸品、はたまた料理や節句の供物(七草粥、白酒、粽、柏餅、素麺、菊酒など)もしかりである。その民族の習慣・環境の中からこそ民族としての日本人は形成される。

宗教においても然りである。

ダライ・ラマは「その人の宗教を決定するのは生まれ落ちた環境である。仏教徒の子は仏教徒に、キリスト教徒の子はキリスト教徒となる。却って環境に逆らってキリスト教徒が仏教徒に、もしくはその逆に改宗するというのは危うい。私は仏教徒です。そして私はキリスト教徒を尊重しています」と述べている。

合理至上主義の者たちには、文化や習慣・しきたりというものは、無駄なものに思えるだろう。しかし、時に彼らが声高に唱えるグローバリズムは、日本人が日本人の習慣や文化から培われたアイデンティティーを確立するのが一番の近道である。日本に生まれた人間が、〝日本文化を身に纏った日本人〟という特性を持つことが一番の武器になるのである。

それには幼い頃から伝統的な日本特有の習慣、五節句・二十四節気などの年中行事、七五三などの通過儀礼、に触れて育つことが必要となる。これらが失われてしまえば、いくら英会話が堪能となろうと真のグロバール化には程遠かろう。

飯を噴いた

二、三ヶ月前にネットで目にしたもので、軽薄そうな社会学者という肩書の輩が「高校の古文の授業はもう必要ない。限られた授業のコマ数の中では、他の重要な教科に時間を振り分けるべきだ」と宣っていた。と、これに同調した芸人が「その通りで、日常生活の中で古文なんか使わないからいらない」と馬鹿丸出しの投稿をしていた。

噴飯ものである。

その辺から突然湧いて出てきた人間はいない。父母がいて父母方の祖父母、曽祖父母、そのまた前の幾多の先祖がいて、全てが繋がって初めて己という存在がある。誰かが途切れいたら自身は今いないのである。
言葉も同じである。突然降って湧いて出た言葉はない。変化しつつも連綿と古から続いていたからこそ現代語はある。古文は現代語のルーツ・祖先である。古文という日本語の基礎を学ばなくして、どうして日本語で書かれた他の学科の教科書を深く理解することができるのか。

古文が日常的に使わない、必要性を感じないというならば、高校で習う教科は全てそうではないのか、数学・物理・化学、重要とされる英語にしたって英会話をするだけなら中学英語で十分である。英文の長文解釈なんて大学受験にしか必要ない。しかし、一見全て無駄に見えるこれらの教科が必要なのは、学生がこの大いなる無駄の中から何かひとつでも興味が持てるものを見つけることにある。無駄の中から必要なものを見つけるためには、多くの無駄が必要なのである。古文に興味を持った生徒が日本文学科を志すように、古文の授業が不要なわけがない。

しかるに、古文は日常生活で使わないとホザいた芸人の売り物は何か。それは話芸であろう。話芸とは言葉を操るものではないのか。日本語で漫才なり、コントなりを芸としている以上、日本語が全てであり、平易な言葉であっても、その元である古文を無視しては成り立たない。つまりは日本語を話している以上、ましてや話芸を生業としているものが日常生活で古文を必要としないとは、口が裂けても言えないはずである。まあ、その程度の芸人の舞台にろくな芸はあるまい。

と、ことの発端のくだんの社会学者の経歴を見たら、彼の書いた小説が2回連続で芥川賞候補になったとあった。古文を否定する人間の書いた小説が芥川賞候補に—ほんに世も末である。

編緝子_秋山徹