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令和六年 清明

2024年4月4日 ~ 2024年4月18日

雁風呂

悉皆成仏

初花

清明_四月となり、暦は〝春たけなわ〟である。

暦の上ではまた〝晩春〟であるが、寒い日が続いた。
桜も満足に開花していないので〝花冷え〟と呼ぶのにも憚られるようだ。

四月に入って多摩川沿いの桜並木もにようやく一輪二輪の〝初花〟が見えるようになった。

例年よりも遅い開花に予定が狂ったのか、先の週末には蕾の下で宴会をやっている連中がいた。外で呑めればなんでも良いのだろう。毎度愚痴るが、私は花見と称して宴会をやる輩が嫌いだ。桜の下の馬鹿騒ぎは醜悪である。ましてや満開の桜の枝のすぐ下で、もくもくと煙を上げてバーベキューをやる馬鹿には、どうぞお帰りいただきたいと願う。桜への冒涜・虐待である。よって毎年私の花見はこやつらが帰ってやっと静まり返った夕まぐれの〝夜桜見物〟となる—と、この時期に毎年同じことをここに記している。それほど腹立たしいとご理解いただきたい。

「初物、命七十五年」という言葉がある。その時期に滋味が高まる旬のものを食べて過ごしていると、七十五歳までも長生きできるという昔の言葉である。
これを花に代えて「初花に 命七十五年ほど 」と芭蕉は詠んだ。実際に躰を作る初物の食物同様、桜の花を眺めて心に培う栄養もまた重要なものであると芭蕉はいう。私のような不埒な輩は、花は花でも色付く女性もまた躰と精神に佳きものなりと解釈したくなるが、これでは芭蕉というよりも一休宗純であろう。

清明の初候は〝鴻雁北(がんきたにかえる)〟である。秋にシベリアから渡ってきた雁(かり)が、春になり北へと旅立つ季節。雁は、秋の彼岸の頃に渡り来て、春の彼岸あたりで旅立つため、雁の故郷は〝常世の国/黄泉の国〟とされてもいた。

古代日本人は、「人の霊魂は鳥となって天に上る」あるいは「人の魂は鳥によって彼岸に運ばれる」と鳥に魂を託した。

鳥は、その親和性からか、古から歌に詠われることも多く、『万葉集』に時鳥(ほととぎす)の歌が百五十首、雁が六十七首、鶯(うぐいす)が五十一首詠われていて、この三種が圧倒的に数多い。

時鳥や鶯はその鳴き声が愛でられるが、雁は雁行と呼ばれるV字に揃った編隊の形、美しい飛び姿が好まれる。芒と満月に雁行の絵面は秋の訪れを描く風景となる。

中国では雁の定期的な渡りから、遠方にいる人の消息を知らせる使者と考えられ、『漢書』の匈奴(きょうど/漢代のモンゴル遊牧民族)に捕らえられた蘇武が雁に新書を託したという「雁の使(つかい)」という話が知られる。

松に雁

青森県津軽地方に伝わるとされる民話に『雁風呂(がんぶろ)』がある。

雁は海を渡ってくる際、途中海面に浮かべ、その上に止まり羽を休める時に使う小枝を加えてやってくる。津軽の浜辺に着くと不要となったその小枝を置いてゆく。秋帰り行くときには、春に浜辺に置いた小枝を再び咥えて旅立って行く。しかし、浜辺には残った枝がある。それはこの冬の間になくなった雁たちのものである。津軽の人たちは、雁の供養も込めてその枝を拾い集めて風呂を炊き、旅人や修験者の体の疲れを癒したという。これが伝わる『雁風呂』である。

しかし、本来雁にはこのような習性はなく。また、津軽地方にあっても誰もが知る有名な民話でもないという。山口瞳が出演した「1974年サントリー角瓶のコマーシャル」で知ったという青森県民も少なからずいたらしい。かつて出演の山口瞳や開高健がコピーライターとして在籍していたサントリー(当時壽屋)のコマーシャルは、彼らの潮流を汲んでか秀逸なものが多かった。

これは日本人の持つ宗教観「草木国土悉皆成仏」に由来するもの、禅学者の鈴木大拙の説く「西洋は自然を克服せんとするが、東洋は自然とともに生かされているとする」であり、雁も人間も同じ自然界に共に生きる同胞であり友垣である。故に冬の間に亡くなった雁を、彼らが使った小枝を使って供養するのは自然な流れである、という心根が民話という形になったものであろう_角瓶のコマーシャルで山口瞳はいう「日本人って不思議だなー」

この『雁風呂』を核とした古典落語の噺がある。

噺の登場人物は、全国行脚の中上方に向かう水戸光圀・黄門様一行と江戸へ下る二代目淀屋辰五郎である。

場所は遠州掛川宿のとある茶屋、黄門様一行が一休みしていると茶屋に立派な一幅の屏風が。今にも飛び立たんとする雁の姿が見事に描かれている。室町時代の絵師・土佐将監光信の作と見られるが、黄門様には解せぬことが。それは、雁といえば取り合わせは満月もしくは芒が定石であるが、この絵には、松と雁が描かれているのはどうしたものかと、一行の面々に尋ねるが誰もわからぬ始末。
そのうちに江戸に向かう淀屋辰五郎一行が茶屋に立ち寄る。遠目に屏風を見て、「ああ、あれは『雁風呂』だな」と呟く。
黄門様は淀屋辰五郎を呼んで絵の謂れを尋ね。辰五郎が応える。この噺の中で辰五郎が説明したものと民話で異なる部分は、場所が函館の一松に、小枝は近隣の民が春に拾い仕舞っておき、秋になると浜辺に置いておく、そして残った小枝を拾い集めて風呂を炊くという部分である。
辰五郎はさらに、この屏風が一双揃っていれば、この場に無い方の屏風に、紀貫之の「秋は来て春帰り行く雁(かりがね)の羽交(はがい)やすめぬ函館の松」という歌が書いてあるはずだと説明する。
黄門様は辰五郎の知識に感心し、名を尋ね彼は二代目淀屋辰五郎と名乗る。さらに黄門様が何用で江戸に行くのかを尋ね、辰五郎は、実は大名の柳沢美濃守に用立てた三千両を返してもらおうと思い行くのです、と答える。
黄門様はその場で証文を書き、柳沢が返さなかった時は、水戸藩の上屋敷にこの証文を持参すれば、水戸藩が三千両を支払うと証文を渡す。〈参考:三遊亭圓生『雁風呂』

というのが噺の粗筋であるが、噺の枕で淀屋辰五郎についてが語られる。この物語の辰五郎の先代の淀屋は、大阪の豪商であり、淀屋が私財で架橋した橋の名『淀屋橋』が現在も在り名残を残す。参考:〈淀屋橋/大阪市HP
淀屋辰五郎は大阪難波の民のために橋のみならず、貧しい人々の米や炭、薪、魚、野菜などの生活費を立て替えるなど、徳の篤い人であったが、ある時突然華奢(かしゃ)の科(とが)で、財産を没収され、大阪を所払い、尚且つ京都や江戸にも住むこと叶わずという〝闕所(けっしょ)〟の処分を受ける。一説に、この裁きは淀屋から大きな借財をしている大名たちの謀で、大名は淀屋の闕所により自分たちの借金を棒引きにしたとされる。これは元副将軍であった黄門様も当然承知のはずで、二代目淀屋辰五郎の窮状を慮り、『雁風呂』の講釈の褒美として三千両を授けたものと思われる。

どうだろう最近似たような理不尽な話をお聞きではないだろうか、この大名を政治家と置き換えれば、金銭を卑しくこさえた事がら、その後の処理の身勝手さが同根であることをつくづく思い知らされる。

市井の民は苦しめ、おのれは意地汚く懐を肥やす。こんな輩に限って自分は選良であると思い上る。

〝先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし〟

『雁風呂』の「日本人って不思議だなー」が「政治屋って不実だなー」となった。

編緝子_秋山徹