令和六年 春分
アドリア海の女王
女王の本性
天からの罰
春分_陽が真東から昇り、真西へと沈んで、昼と夜が拮抗する。
奈良東大寺のお水取り修二会が無事終わりを迎え、多摩川土手の桜並木が芽吹いて、枯れ木の輪郭から蕾を抱いたものへと形を変えている。来週末あたりには開花しそうな雰囲気である。
愚かな人間の行ないを横目に、自然の営みは正直に陽の長さを変え、桜を今年も咲かせる。この規則正しい営みの有り難さを忘れてはならぬと、稀に地震のような罰を与える。それが今回正月元旦であったことが、その怒りの深さを示すようでもある。
国会では相も変わらず下らぬ政治家の生態が暴かれ、被災者を放ったらかして審議の時間が浪費されている。これでは遠からぬうちに、より大きな自然の怒りを買うのではないかと恐れ慄く毎日である。
東大寺のお水取り修二会が、天平の御世から令和六年の現代まで1273回途絶えることなく連綿と続いていること、これが人間の行ないであることが尊いことだとつくづく思う。奈良の大仏・盧舎那仏が鋳造され、鑑真和尚が唐から渡来した時代から途切れることなく営まれていることに意義がある。
私がこの世から居なくなった後、そのずっとずっとその先まで、日本がある限り千代に八千代に無くならないであろうものがあることは、頼もしく安心する。
と、次世代である娘より連絡があった。夫婦でパリ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマを旅行するので、情報を寄越せという。不案内なパリ以外の簡単な情報と参考になりそうな本を送った。20年以上前のいささか古い美術関係の本だが、イタリーの三古都にとって20年など一日に等しい。まあ、流行りのブランド店やレストランは自分でネットで探してもらった方が早かろう。
三古都に関して私が抱く心象は、暴力のように〝美〟を投げつけてくるフィレンツェ、あらゆる時代の遺構と現代が〝混沌〟としているローマ、そしてヴェネツィアは大運河・グランカナルの闇深く冷徹な姿を沈めなかなか本性を明かさない、というものだ。
霧に咽ぶ夜
海外で夜景が絶品であると称される香港、ナポリ、モナコはいずれも港街である。当然ながら港町は空や陸路などより海から船で入るのが一等美しいのだが、なかなか飛行機や列車、車以外でこれらの港町に入るのは、豪華な船旅でもない限り稀である。それに比して船で入るしかないヴェネツィアは美しさを損なうことがない。
その日、私がブリュッセルからヴェネツィア・マルコポーロ空港に着いたのは深夜だった。最終便の水上バスに乗ったのは私の他に4、5人いたが、みな地元の人間だったらしく本島に着く前に途中の島で降りてしまった。終点の波止場まで漆黒の海の上には靄が立ち込めていた。水上バスは海面を舐めながら滑るように前進する。やがて前方に教会らしきシルエットが浮かんだと思ったら靄にまた姿を隠す。ヴェネツィアの夜は早い。館の中では煌々と明かりがついているのであろうが、外にはその光が漏れてこないようだ。
進行方向の左にサン・マルコ寺院が見えるはずだと烟(けぶ)る運河に目を凝らしていたら、係りに終点のピアッツア・サン・マルコに着いたと言われて降ろされた。狐に摘まれた気分で夜霧に右も左もわからず立ちすくんでいると、桟橋近くハリーズバーの角あたりから、身なりの良い50代がらみの男が出てきたので、目指すホテル・ダニエリの場所を聞いた。
男が指差す方向に巨大な円柱の影が二本見えたので、そこがサンマルコ広場の正面だと知れた。ホテルはその先の橋を渡ったところにあるはずである。グラッツェと礼を言い歩き出そうとした私に彼が、円柱と円柱の間を通るなよ、特に夜は縁起が悪いから、と注意した。
その逸話については事前の予習で知っていた。
この二本の巨大な大理石の門柱の上にはそれぞれ守護聖人を象徴する有翼の獅子が載り、900年以上もの歳月ベネツィアの玄関口の門として異邦人を迎えてきた。この円柱の設計・製作者ニコロ・パラッティにはその功績から、この柱と柱の間で博打を行なう権利が与えられたという。しかし、やがてこの場所は博打場から公開処刑場へとその役割が変化し、幾多の罪人の死体が転がった。故に地元ヴェネツィア人は、縁起が悪いとこの柱と柱の間を通り抜けない。
この逸話を頭に浮かべながら、間違っても間を通らぬようにと靄に烟り誰も居ぬ波止場をひとり歩く様を想像して欲しい。右手の波止場には、黒いゴンドラの群れがパリーナ(杭)に舫われて一斉に揺れている。私は顔を撫でていく生暖かい風に怯え、ざわざわと背を伝わってくる気配に負けぬようどうにか躰を伸ばして、そろりそろりと、しかしなるべくこの場を早く去りたいと、ぎこちなく歩を進める。
柱と柱の中間地点まで来ると、ビザンチン様式のサン・マルコ大聖堂のクーポラと、かつてナポレオンが「世界一美しい広場」と呼んだピアッツァ(広場)がその姿を見せ始める。九世紀に二人のベニスの商人がアレキサンドリアから聖マルコの遺体を持ち帰り、一説には盗み出してから、聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となった。ある時、ひとりの天使がラグーナに降り立ち「聖マルコよ、この地で永遠の休息を」と告げたという伝説により盗みは正当化されたという。
波止場の反対側にはルネッサンス様式の時計塔がうっすら見える。ここの大時計は、24時間表示かつ天文時計の機能を兼ね備えた、十五世紀の制作当時では画期的なものであった。この時計を作ったズアンとパウロのライエニ親子は、共和国より多大な報酬を得たが、のちに他国で同様の素晴らしいものが作れないようにと、なんと親子共々目を潰された。
此のようにヴェネツィアの職人に自由はない。特産品ヴェネツィアン・グラスの職人は、ヴェネツィア以外の土地に住もうとすれば、その技術の流出を防ぐために右手が切り落とされたという。
まったく波止場についてから、死に纏わる逸話と匂いしかない。
どうにか広場の端までたどり着き、ドゥカーレ宮殿の前を過ぎてバーリア橋を渡る。この橋の左のパラッツォ小運河の上には、宮殿とかつての牢獄を繋ぐ渡り廊下のような「ため息の橋」が架かる。ヴェネツィア稀代の色事師カサノヴァが、死刑判決を受けながらこの橋から脱獄したのは、今夜のような夜霧の深い夜だったのだろうか。
橋を渡り切ったところで、目指すホテル・ダニエリに到着し、ほっとしたのも束の間、そのホテル内部の豪華絢爛さにほとほと疲れ切ってしまった。
幾多の文学者がヴェネツィアに魅了され、彼の地を舞台にした作品を遺したが、シェークスピアの『オテロ』『ヴェニスの商人』、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』のように破滅や死の香りのするものが多い。
やがて朝を迎えると「アドリア海の女王」と称されるヴェネツィアはその優雅な姿を陽のもとに晒す。この女王の夜の本当の姿を隠して—
運河の女王は残忍非情であると感じるのは、最初の夜の出会いの心象からだけではあるまい。
編緝子_秋山徹