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令和三年 立冬

2021年11月7日

洒脱は難しい

酒の歳時記

末枯れ

立冬—秋の暮れとなり、木々の葉の末(先・端)が枯れて暦は冬となった。
この葉の末が枯れることを末枯という。
末は〝まつ〟ではなく〝うら〟と読み、末枯(うらがれ)はこの時候の季語である。
一茶に「末枯れも一番はやき 庵哉」があり、やはり歌の情景と景色は侘しい。

しかし、〝侘しい〟というのは宜しくない、魅力がないというのとは違う。
日本の侘び寂びの世界は、この侘しさを愛でるのがまた一層良いのである。

この時候の侘しさを堪能する際、馴染みの友は何と言っても熱燗である。
酒には、季節を、友を、はたまた女性を、その折々に触れて感情の襞(ひだ)を揺らした心持ちを想い出させてくれる。

この酒に纏わる話をまとめた随筆集に池部良の『ひとり酒 振舞酒/TAC出版』という作品がある。

俳優・池部良の作品というと映画やドラマを思い浮かべる方が多いかもしれないが、池部良の人生の後半は、名優というよりも優れた随筆家としての名の方が勝る。

わがコラムの師匠

池部良は、画家・池部鈞(ひとし)の長男として1918年東京・大森に生まれた。
母親は岡本一平の妹で、岡本かの子は義理の叔母、岡本太郎は従兄弟にあたる。
父・鈞は洋画家でありながら、本所生まれのチャキチャキの江戸っ子で、その気質からくる魅力いっぱいの逸話は、池部良の随筆にたびたび登場する。

随筆の中にある池部良の父・鈞の評は、

——おやじは洋画家だが、江戸っ子を誇りにしていたから、かなり独断と偏見を含んだ頑固な主張を放つ癖があった。

——江戸っ子だから、そうだとは言えないが、事に拘ることはあっても、潔よかったし、嫌味がない張りのある気性を持っていた。

——とにかく照れ屋で、筋が通らないと、梃でも動かないところがあったけれど、感情と論理に矛盾を見せていたから、あるいは本物の江戸っ子だったのかもしれない。

というものだった。

ある日、撮影中の映画の内容を「今、こういう粋な話をやっているんだと」と話す池部良に父・鈞が「ばかやろう—そんな話あ、粋でも帰りでもねえんだ。粋ってえのはな、とにかくさっぱりと垢抜けして、色気がなくちゃいけねえもんだ」と小気味良い啖呵を切る場面が随筆に描かれている。

池部良自身も父親の江戸っ子気質を受け継いで「一本気でさっぱりとしているが頑固なところもある反面、慌てん坊でおっちょこちょいで、そそっかしく思慮分別に欠けている。」性格であると自覚している。

そして、時々江戸っ子にあるまじき行為であったと、随筆の中でおのれの行ないを反省してみせる。

池部良は、立教大学の英米文科在学中から東宝のシナリオライター研究所の研修生となり脚本家を目指す。
大学卒業後に東宝映画の文芸部に入るが、俳優に駆り出されたのをきっかけに、そのまま役者を続けることになる。

やがて昭和十七年二月に召集を受けて四年間戦地に赴くが、その間に自身の意思とは裏腹に将校となり、インドネシアのハルマヘラ島で終戦を迎え、復員船に乗って戦地から無地引き上げて来たのは、応召から四年半後の昭和二十一年七月のことであった。
引き上げの復員船の中では、将校が兵隊に暴行を加えられたり、果ては海に突き落とされたりするものがいた中、池部良は自分の部隊の兵隊達の差配で無線室に匿われており、その人柄が偲ばれる。

復員後も俳優を続け、『青い山脈』『雪国』『坊ちゃん』『暗夜行路』など、主に文芸作品の主役を演じることになるが、若々しい風貌から実年齢から離れた役柄が多かった。

やがて、高倉健と共演する任侠映画『昭和残俠伝シリーズ』に6本に出演し役の幅を広げる。
またこの頃、日本映画俳優協会の会長職も務めている。

70歳を超えた1990年代からは随筆を中心に執筆活動が盛んとなり、「日本文芸大賞」などを受賞している。

池部良の文章は、江戸っ子のべらんめえな調子も根底にみえるが、全体に上品でユーモアとペーソスを備えたものである。
戦地で将校として辛苦をなめながら、その話を恨み辛みを含まぬ淡々とした文章で描く。
その逸話を身も蓋も無いほどに全てを描かず、一定の場所で留める。
父・鈞にみる江戸っ子のさっぱりと垢抜けして、色気のあり、〝かろみ〟を帯びた洒脱な文章である。

実は、このコラムを書く上で私が一番影響を受け、意識しているのが、何を隠そう池部良の文章である。
と、白状するほど全く洒脱で無いおのれの拙文が情けない。

『ひとり酒 振舞酒』

池部良の『ひとり酒 振舞酒』は、彼の人生に登場する酒にまつわる話が、ほぼ時系列に沿って書かれている。

大森・馬込の幼少の頃に初めて呑んだ酒〝白酒〟から始まり
親爺・鈞の嗜む〝清酒〟〝どぶろく〟〝ウォッカ〟〝ベルモット(チンザノ)〟
立教大学生時代の〝ビール〟〝ジン〟〝電気ブラン〟
出征の際の〝日本酒〟
戦地での、〝朝鮮のマッコリ〟〝ブランデー〟〝支那酒・白乾児(バイカル)〟〝椰子種の蒸留酒ソピー〟
引揚船での〝オールドパー〟
復員後の〝バーボン・ウィスキー〟
俳優復帰直後の〝メチルアルコール〟
再びの〝バーボンウィスキー〟こちらは進駐軍がらみ
ベルリン映画祭での〝ギムレット〟〝アクアビット〟〝ワイン〟〝シェリー酒〟
中国の友人と池部夫人と上海蟹で〝老酒〟
帝国ホテルのバーと〝カンパリ〟
京都のホテルで再びの〝ギムレット〟
オランダの酒〝ジェネヴァ(伝統的なジン)
ギリシャの〝ウゾー(水で割ると白濁する無色のリキュール)〟
友人宅の〝ラム酒〟
ハワイの土産話の〝マイタイ〟
である。

幸運なことに私も〝メチルアルコール〟と〝ジェネヴァ〟以外は呑んだことがあり、少しながらそれぞれに想い出もある。
(もっとも〝メチルアルコール〟は呑んだことのある方が珍しかろうが—)

二つばかり短く紹介すると、

まず〝アクアビット〟は、赤坂はサントリー本社ビルの一本裏手の細い通りにあった店『カナユニ』で呑んだ。
店名は〝かなりユニーク〟を略したものと記憶している。
階段の踊り場のような場所でトリオがジャズを演奏していた。
そのバンドマンの一人に誘われて行ったのであるが、この店を有名にしていたのが、生前の石原裕次郎が毎夜明け方までこの店のカウンターで呑んでいたことである。
生前は裕次郎を一目見たい、没後は彼のいた雰囲気に浸りたいという親爺連中が、店が跳ねた後のホステスをアフターで同伴してきた。
だからこの店は深夜が混んでいた。
ひとりバーカウンターに座った私に、これから演奏に入るというバンドマンが勧めたのが『カナユニ』名物の〝アクアビット〟だった。
それは、長年冷凍庫の中で育んできた氷がまとわりついたボトルだった。
いや、すでにボトルの形状をなしておらず、一抱えの樽ほどの氷柱の中に〝アクアビット〟のビンが埋没している。
ストレートグラス注がれたやつをキュッと一気に呑んだ。
これが旨かった。
〝アクアヴィット〟のアニスの香りがすっと鼻に抜け、あとでアルコールがどしんとくる。
氷をまとってキンキンに冷えているおかげで、〝アクアヴィット〟が生きていた。

もうひとつは〝ウイスキーの水割り〟である。
世の中では、ごくごく普通の呑り方であろうが、私は〝ウイスキーの水割り〟が大嫌いである。
せっかくのウイスキーの芳香と馥郁たる味わいを台無しにしてしまう呑み方であり、ウイスキーとその作り手に対して失礼である。
ストレートもしくはオン・ザ・ロックスで呑む。
ジャズ評論家で随筆家の久保田二郎も著書で同じように記していた。
しかし、ひとつだけ〝ウイスキーの水割り〟それもできるだけ薄い方が旨いという場面があるという。
それは、カレーライスを食う時で、この時ばかりは〝薄ーい水割り〟に勝るものはないと書いてあった。
早速カレーを作り試し呑んだ—然り—薄ーい水割りでなければならないと悟った。
確かにビールではカレーが気持ち重くなり腹に溜まるが〝薄ーい水割り〟ではそれがない。
ウイスキーが濃いとカレーを邪魔してしまう。
あくまでも水の中にウイスキーの香りがほのかに漂うものが好ましい。
以来、ウイスキーおよびその作り手には申し訳ないが、カレーには〝薄ーい水割り〟が一番となっている。

どちらも30年以上前の咄である。
池部良も、石原裕次郎も、久保田二郎もとっくにこの世におらぬ。

たまにはカレーを作ってウイスキーの水割りでも呑むか。

編緝子_秋山徹