バルサミコ
高貴なる酢
百年の酢『バルサミコ』
ナポレオン妃も愛した高貴な酢
イタリア北東部エミリア・ロマーニャ州モデナ、イタリアでも豊食の地と呼ばれるボローニャからほど近いこの地には、名産として微発泡性の赤ワイン・ランブルスコや、豚の足の皮に肉を詰めたソーセージ・ザンボーネなどがあるが、とりわけモデナの地名を高めているのが、日本でも広く知られるようになった「バルサミコ」である。
バルサミコは現在もイタリアそれもモデナ近郊でしか生産されておらず、モデナを中世より治めていたエステ家では他の公国への贈答品として用い、貴重な外交の道具として重用された。
長い歴史の中でバルサミコは、モデナ貴族など上流階級が自家用か贈答にしか用いられず、売買されていなかったため一般に流通していなかった。またエステ公爵は、城に招いた賓客にまず一杯のバルサミコをアペリティフ(食前酒)として供したため〈公爵の酢〉とも呼ばれる。
バルサミコは、酢といってもドロリとしたシロップ状の液体で、色も深い焦げ茶色をしており、一見しただけではとうてい酢とは分からない。
また舌で味わうと、その香りと風味は、バルサム〈木から採る香油〉の名が示す通り芳醇かつ繊細で通常の酢の概念にないものと知る。
貴族が愛し、かつ独り占めしようとした理由がよくわかるのである。
五つの樽に最低12年以上
通常の酢は、ワインビネガーのようにアルコールから作られるが、バルサミコは葡萄のモスト(ジュース)から直接作られる。
そして、いかなるスパイスや香料を加えられることなく、異なる材料の樽の中で、その醸造度に応じて詰め替えられて、ゆっくりと自然発酵しながら酢となっていく。
バルサミコの一般的な製造工程は、まずこの地方特産のトレッビアーノ種の葡萄を、甘味強化のためワイン用よりも遅摘みして、苦味が出ないように、その日のうちに絞ったモストを発酵の兆候が現れる前に布で漉す。その後モストは大釜で数時間かけて煮詰められるが、その煮詰め具合は30%から70%と幅があり、醸造職人がその年の天候や葡萄の出来、糖度などを判断して決める。
この時の煮詰め具合を見極めるポイントが、仕上がりを決め、醸造職人の腕の見せどころとなる。
こうして煮詰められたものをモスト・コットと呼び、沈殿物を取り除いてから第1の樽・オーク材の60リットルの樽に入れられるが、この時10%ほどのワインビネガーが加えられる。このワインビネガーの量も醸造職人によって決められる。
その後、栗材(50リットル)・桜材(40リットル)・トネリコ材(30リットル)・桑材(20リットル)の樽へ、順に移し替えられたり、次の樽に補充されたりして、最低十二年の歳月をかけて、ゆっくりと複雑な発酵を繰り返してモストはバルサミコへと姿を変える。
熟成には30年、40年、時として百年かけることもあり、バルサミコが「百年の酢」とも呼ばれる所以である。
バルサミコの芳醇な香りと味は、まさに五つの木材とバクテリアの恵みによるものである。樽が古くなった時は、内側の貴重なバクテリアを損なうことなく保存するために、外側を補強して使い続ける。
特に、バルサミコが最後の仕上げの行程で入れられる桑材の樽は〝女王の樽〟と呼ばれる。私が取材に訪れた醸造所には五百年を越すこの〝女王の樽〟があり、醸造職人から「以前この〝女王の樽〟内部の物質を科学分析したところ、なぜこの場所にこの物質が存在しているのか分からないという結果が出た」という話を聞いた。
五百年の間に自然が作り出すものは摩訶不思議であり、その不思議がバルサミコの味の不思議を生んでいる。これをスローフードと呼ばずしてどうしよう。
長い長い年月を重ねて樽の中で眠り続けたバルサミコは、それ一本で家庭の料理を豊かにする。焼いた肉に垂らせば格段に旨味が豊かになり、チーズやバニラアイスクリーム、イチゴとも相性が良い。
昔ながらの製法で作られて、「モデナ・バルサミコ協会/*DOPが認定したバルサミコ」(通称トラディツィオナーレ)には証紙が貼られ、どの製造元のものでも**ジウジアーロがデザインしたユニークな形の同じビンに入れられる。
*DOP( Denominazione di Origine Protetta)イタリアにおける原産地名称保護制度
**ジェルジェット・ジウジアーロ/イタリアの工業デザイナー、主に車のデザインで有名〈フォルクスワーゲンのゴルフ、シロッコや『バック・トゥ・ザ・フュチャー』でおなじみのデロリアンDMC12、マツダ初代ルーチェ、いすゞ117クーペなど〉であるが、ニコンのカメラ・デザインなど一般工業製品のデザインでも優れたものを発表している。
もちろんイタリアの一般家庭でジウジアーロの瓶に入った高価なバルサミコ酢を普段使いしているわけではない。ブドウ酢に着色料・香料・カラメルなどを添加し、大量生産された普及品が日常的に使われている。
この普及品は本来の製法ではないため擬似商品である。しか材料や工程にこだわったり、3 – 5年程度の比較的長い熟成を経たものも多く、トラディツィオナーレなどに比べると格段に安いが、決して粗悪品というわけではないため、一般のレストランでも頻繁に使われている。
モデナの名産・出身といえば、オペラのルチアーノ・パヴァロッティの名前も上がる。
バルサミコ協会認定のジウジアーロデザインボトル入りトラディツィオナーレ『バルサミコ』には、解説の小冊子が付属しているが、その末頁にパヴァロッティゆかりのメニューが載っているので紹介しよう。
『パヴァロッティ風子牛のバター焼きバルサミコソース』
子牛モモ肉の薄切りを塩胡椒して、小麦粉でまぶしてから、強火でバターソテーし、皿に並べる。フライパンに残ったバターに、バルサミコと生ハムのさいの目切りを加えて、ソースとして子牛の肉にかけ、その上に刻みパセリをふりかける。
やはり食材が良ければ、料理はシンプルになる。
そしていまひとつ、モデナには世界に誇る名産がある。
欧州最高級スポーツカーの雄『フェラーリ』である。『フェラーリ』については次回大雪にて