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Ferrari

2018年12月7日

真紅の跳ね馬Ⅱ

疾る芸術品

職人技の結集

18歳でフェラーリの職人となった彼の経歴が変わっている。

「高校は地元の商業高校です。簿記や会計の勉強をしていました。でも、毎日学校の行き帰りにテストラン中のフェラーリを見ているうちに興味が湧いて来て、いつしかそれが情熱に変わったんです。工房に入った時、車の知識は全くありませんでした」

「僕ら地元に住む人間は、毎日あのフェラーリのエンジン音を聞いて暮らしているんです。あの魅力には抗えない」

「最初の一年は熟練の職人について組立の仕事を教わりました。その後各工程の手伝いをしながら順次覚えていきました。当時は機械化されていない行程が多くて、工学的な知識よりも、職人による手作業が多く要求される、現在とは違う状況でした。もちろん、現在も手作業が必要な部分はありますが、昔に比べるとはるかに少なくなっています。ですから、現在は工学的な知識を持った職人というより工員が求められています」

と、マカレージさんは語るが、先ほど〝ラインらしき〟と表現したように、工房のラインは、我々が通常見にする自動車工場のラインの動きとはまるで違っている。

シャーシが組み立てられ、ボディが乗せられて、各パーツが取り付けられているのだが_例えば、運転者シートを取り付けている者は、一旦取り付けたシートに座りハンドルを持って座り心地やリクライニングを何度も確認している。
助手席のシートはまた別の職人が次の行程で同じことを繰り返す。
ドアを取り付けている職人の脇には何枚ものドアが並べてあり、同じ色目のものを探し時には、一旦取り付けたものを外して再度取り付けたりしている。
フェラーリの独特の赤い色でも、ボディとドアの微妙な違いを選り分けて取り付け、その後は何度も開け閉めを繰り返して、開閉の調整をしている。

ゆっくりと作業が進む、だが決して弛緩した空気ではない、緊張感の漂う静謐とさえいえる空気が工房内に漂っている。

まるで大きなプラモデル工房のようだ。ラインが他のメーカーの自動車工場のような速さで動かないはずである。これは工場と呼ばない、私が作業場を工房、スタッフを職人と表現する理由がここにある。

生産の最後の行程はフューエルリッド(ガソリン注入口)の蓋をボディにつけるもので、この作業は女性の職人が、何十枚もある蓋から色合いの同じものを選び出して取り付け、何度も開閉を繰り返して調整をする。蓋がピタリと決まれば、すべての行程の終了である。

この作業場の前は、シャッターとなっていた。彼女が終了のサインを送ると、マカレージさんが車体のすべてを確認し、ガラス張りのオフィスへ手を挙げて合図する。

オフィスからテストドライバーがフェラーリに乗り込み、目の前のシャッターが開くと、そこにはマラネッロの公道へと続く道が現れて、生まれたばかりのフェラーリは駆け出して行った。

思わず「ああー」とため息が漏れた。

創始者のエンツォ・フェラーリが誇りをもって「フェラーリのエンジンは美しい音楽を奏でる」と謳ったその音楽が駆け抜けていく。

その音楽は官能的でさえある。

マカレージさん曰く「工房の中にいても、フェラーリのエンジン音が聞こえてくる位置で、今マラネッロの街のあの辺りを疾っているなとわかる」そうである。

職人の心躍る瞬間であろう。

「フェラーリ?当然全員所有していますよ。ミニュチュアサイズのね。本物を所有しているのはモンテゼモロ社長ただ一人です。誰もが所有できるようになったら、フェラーリはフェラーリで無くなる」

そう、彼らは自分が一生所有することのないフェラーリという〝走る芸術品〟を誇りを持って制作している。

ゆえにフェラーリは、移動手段としての〝クルマ〟では決してないのである。

持ち物の基準

〈心酔〉とは、心に分別を失うほどものに傾倒することをいうらしい。

フェラーリ工房のマカレージさんなどの職人たちのように、フェラーリに〈心酔〉して心血をそそぐことは美しい。

しかし、ただの車好きがフェラーリを〝所有せん〟とするのはいかがであろうか。

単に金があれば所有してしまえば良いものなのだろうか。

私は、工房を訪れてフェラーリに心奪われたが、将来、万が一にも金満家となっても所有したいとは思わなかった。

それは、人がフェラーリを選ぶように、フェラーリも所有者を選ぶと思っているからである。
すぐれた美術品や工芸品とは、そういうモノであろうと思う。
そのものを購入する金銭を持っていることと、その人にふさわしいかどうかは別の話しである。

このバランスが壊れた関係は悲しい。

残念ながら日本でフェラーリに乗っている人を見て、「あー、フェラーリにふさわしい人だ」と思ったことは一度もない。

プロ野球選手などが、いきなり高い年棒を手にして購入したりするが、いつの間にか手放していることが、それを証明している。

生まれたばかりの新生児を〝赤ちゃん〟と呼ぶのは、真っ赤になって泣く姿が生命力にあふれているからで、赤い色とは情熱と生きる活力を象徴する色である。
それゆえに、還暦の際に〝赤いちゃんちゃんこ〟を着るのは、新たなる生命_再生/Rebornを赤を纏うことで表すのだと聞いたことがある。

フェラーリの赤も、生命力と情熱、活力の証である。

フェラーリを駆るのは、人生を怒涛のごとく疾駆する漢にこそふさわしい。

人は己を知るべきなのである_かくいう私も人のことは言えぬが

知足の戒_吾、唯足るを知る

次回〝冬至〟で一年の締めのお話は、「知足_ムヒカ大統領のスピーチ」

編緝子_秋山徹