1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 健さん

健さん

2018年8月7日

高倉健は能である

日本男子の背筋を伸ばす名前

ローマでの邂逅

思いがけず〝その人〟を見かけたのは、ローマ空港の日本航空ラウンジだった。

その人は、バーカウンターの前でエスプレッソを待っていた。

少し斜めを向いた後ろ姿は、紛れもなくご本人と知れた。

銀幕の向こうに何度も見たその姿が、目の前にあった。

そして、エスプレッソを受け取り、振り向かれた時、呆気にとられて、口を半開きにし立ち尽くす私の馬鹿面をお見せしてしまった。

憧れ続けていた人を前にすると、人は惚(ほう)けると、その時、初めて知った。

その後の1時間は私にとって至福の時であった。

お会いしたのでもなく、見かけただけでもなく、同空間に1時間以上一緒にいたという、絶妙の距離感が嬉しい、とても濃密で幸せな時間が過ごせた。

その人とは〈高倉健〉さん、である。

私と同年代や上の世代には、〈健さん〉の熱狂的ファンが多い。

とりわけ、〈健さん〉の出身地・福岡県中間市に隣接する私の故郷・北九州市小倉の〝おいさん(地元ではオッサンのことをこう呼ぶ)〟は、とても熱いファンである。

同郷というのは憧れを一層強める。

そして、小倉は知る人ぞ知る、九州一、ガラの悪いところである。

なにせ〝特定危険指定暴力団〟というのは、全国でも小倉にしかない。

指定暴力団というのは聞くが、そこにわざわざ〝特定危険〟とついている暴力団は、自慢にも何もなりゃしないが、日本国中探しても小倉にひとつあるだけである。

その土壌を生み出したのは、筑豊の炭鉱夫、門司港や若松の〝ごんぞう〟(沖仲仕の通称)、近隣の気の荒い漁師たちであり、まさに『無法松の一生』の富島松五郎、火野葦平作『花と竜』の玉井金五郎の世界である。

特に、『花と竜』は、著者・火野葦平の実父、若松港の〝ごんぞう〟沖仲仕の元締、玉井組組長・玉井金五郎とその妻マンの物語で、金五郎が仲士の生活向上のために小頭聯合組合を結成しようと運動して、これを阻止せんとするヤクザに襲われて三十数ケ所の刃傷をうけたり、女侠客から襲撃され危篤となるのは、ほぼ実話である。

〈健さん〉は、学生の頃、若松で、この〝ごんぞう〟の仕事に近い、石炭船の清掃というアルバイトをしたことがあるらしい。

『花と竜』は、マキノ雅弘監督『日本侠客伝・花と竜』玉井金五郎/高倉健、マン/星由里子で東映が1969年に映画化している。

これで小倉の〝おいさん〟たちの血が騒がぬはずはない、というものだ。

〈健さん〉の『日本侠客伝』などの「任侠シリーズ」は、悪いヤクザの悪辣非道な仕打ちに耐えに耐え、〈健さん〉は、池部良や鶴田浩二、〝緋牡丹お竜〟の藤純子とともに、長ドス片手に相手の組に殴り込んで、ヤツラを叩き斬る。

このラストを見終えて映画館から出てきた観客ほど怖いものはない。全員が、たった今悪いヤクザを斬り倒して血まみれとなり、右手には長ドスを持った〈男、高倉健〉である。すべからく、みな目が血走っている。一触即発の集団である。

「ブルース・リーの映画」を見た後の高校生の比ではないくらい怖い。

私が幼い頃住んでいた家の斜め前には映画館があり、〈健さん〉の「任侠シリーズ」がかかった時などは、映画館の隣で〝角打ち〟をやっていた酒屋に、終演後に俄か高倉健が大勢昼間から酒を呷って、あたりは異様な雰囲気に包まれるのであった。

後に映画館はスーパーマーケットとなり、角打ちの酒屋は薬局に様変わりして、通りの雰囲気は一気に健全化してしまった。

〈健さん〉のファンは、ガラの悪い〝おいさん〟達だけではない。

時代は、学生運動真っ盛り、「全学連」リーダー〝藤本敏夫〟も、そのひとりで、妻の加藤登紀子談では、「その当時の若者は〝魂の震え〟を感じるために、健さんを観に行った。」という。

また、あの〝三島由紀夫〟にしてからが、割腹自殺する市ヶ谷事件に向かう際、車中で楯の会メンバーと「唐獅子牡丹」を歌っていたというのは、有名な話である。

偶然に俳優になってしまった男

205本の映画に出演した〈健さん〉の映画人生は、大きく三つに分けられるだろう。

ひとつは、「任侠シリーズ」に出会う前の時期。

そもそも俳優になったきっかけというのが、〈美空ひばり〉が所属する芸能プロダクションのマネージャーになるための面接で喫茶店にいたところ、東映の撮影所所長マキノ光雄にスカウトされて、東映のニューフェイスとして入社したという。

十分な演技指導もないまま映画に出演させられたその頃を、「一作品一作品身体で覚えるしかなかった」と、〈健さん〉は振り返っている。

まわりの評価も、「台詞まわしがうまくない」「眼力(めじから)がありすぎる」「〈美空ひばり〉の添え物(健さんを気に入った美空ひばりが相手役に指名したため共演作が多い)」など芳しいものではなかった。

この時期、本格的に演技を学ぶことなく主演に抜擢されてしまった負い目と、男子一生の仕事とはどうしても思えなかった「俳優」という職業に迷いを抱きながらも、95本もの映画に主演もしくは準主演で出演し続けた。

継続は力である。

本人が意識せずとも、95本という経験は役者としての土台となったはずである。

不器用を武器に

そして96本目、運命の出会いと作品に巡り合う、昭和39年封切りのマキノ雅弘監督作品『日本残俠伝』である。

この頃〈健さん〉は、演技に対し「不器用を武器にしてやる」という開き直りの覚悟ができたという、それとマキノ雅弘監督の演出・指導が見事に実を結び、作品は大ヒットする。

この作品から、東映の「任侠シリーズ」はスタートし、高倉健は〈健さん〉と観客から慕われるようになる。

さらに出会いは続く、翌昭和40年公開の『網走番外地』/監督石井輝男が、「任侠シリーズ」とともに立て続けに大ヒットして、その頃の若者に熱狂的に受け入れられる。

三島由紀夫や「全共闘」の藤本敏夫が、フアンとなったのもこの頃である。

〈健さん〉は、これから約10年の昭和50年(195)までに80本近い映画に出るが、やがて東映は、菅原文太の『仁義なき戦い』を核とする〝実録ヤクザシリー〟に方向転換をし、1976年〈健さん〉は、東映を退社してフリーとなる。

これが三つ目の区切りとなった。

東映から独立して以降、〈健さん〉の映画出演のペースはガクンと下がる。

1956年に銀幕デビューしてから1965年の「任侠シリーズ」前までに95本、「任侠シリーズ」以降の10年間で82本、東映で20年間に出演した映画なんと177本であったのが、それに対して、東映を退社してから亡くなるまでの36年間では28本と寡作となる。

主な出演作は、

『君よ憤怒の河を渉れ/76』『八甲田山/77』『幸福の黄色いハンカチ/77』『冬の華/78』『遥かなる山の呼び声/80』『駅STATION/81』『南極物語/83』『居酒屋兆治/83』『あ・うん/89』『鉄道員(ぽっぽや)/99』『ホタル/01』『あなたへ/12遺作』

と、作品と作品のインターバルを開けて作品に取り組むようになり、本数こそ少ないが、その役柄は多岐にわたり、一作ごとに異なった印象的な姿をファンに与えるようになった。

〝おいさん〟たちの、憧れのヒーロー長ドスの〈健さん〉は、幅広い世代にファンを持つ俳優〈高倉健〉となった。

このころからブルーリボン賞やキネマ旬報賞、日本アカデミー賞の主演男優賞を度々受賞するようになる。

また、ハリウッド映画『ザ・ヤクザ/74』『ブラック・レイン/89』にも出演した。

さらに、1976年公開の『君よ憤怒の川を渉れ』は、文化大革命直後の中国で、中国人の半分が観たとさえ言われるほどの爆発的なヒットを記録した。以来中国にもファンは多く、2005年には中国資本によるチャン・イーモウ監督作品『単騎・千里を走る』が制作された。

後年〈健さん〉の映画での演技は、「重要なシーンほどリハーサルもない一発撮り」であったらしく。晩年のインタビューで〈健さん〉は次のように答えている。

「一回きりしかないんだもん映画は、ドキュメンタリーだと思うよ」
「芝居じゃないんだもん映画は、芝居しているようだけど、僕は、芝居じゃないと思うよ、映画は」
「演じるとは、心に想うこと」
「想いを伝えるために、俳優は、いる」

また、マキノ雅弘の甥で〈健さん〉とも多くの映画で共演している津川雅彦は、

「演技の技術なんてものは、たかだか知れている。世阿弥が言っているように、演技は、まず真似て〝似せる〟から、いつしか自分が役そのものになる〝似得る〟という境地に至るのが境地。役者の到達する最高地点は〝存在感〟で、高倉健という人は、芝居の中ではなく、己の普段の生き方をどう貫き通すかが、〝存在感〟を身につける術だと知っていた俳優だと想う」と評価する。(_津川雅彦はこの原稿執筆中の8月4日に死去)

健さんは能である

あるドキュメンタリーで、人間国宝の能楽師・梅若永祥が〈健さん〉について、語っていた言葉が印象深い。

「ただ、スクリーンの中で立っているだけで様になっている。その空間を観て、観客は何かを自分の中で想像するわけでしょ。だからお能なんですよ〝あの人〟は。稀有な人だと想うよ。本当は人間国宝にしたかったよね。僕なんかよりよっぽど良いよ」

高倉健2011年11月10日永眠

亡くなる四日前に遺した言葉

「往く道は精進にして 忍びて終わり 悔いはなし」

〈健さん〉が亡くなって、存在だけでスクリーンを支配する俳優がどんどん居なくなった。

かつての銀幕の大スターたち、片岡千恵蔵、大河内伝次郎、近衛十四郎、市川雷蔵、三船敏郎、鶴田浩二、池部良、石原裕次郎、勝新太郎、三國連太郎、緒形拳、原田芳雄は故人となり、最近では山崎努もめっきり出演が少なくなった。

そして何よりこの世代を継ぐべき我らが〈ショーケン・萩原健一〉がここ8年以上も映画に出演して居ないことが嘆かわしい。

池波正太郎が、NHK大河ドラマ『勝海舟』での岡田以蔵のショーケンを絶賛してから43年、誰かショーケンを使いこなせる監督は居ないものか。

ショーケンの岡田以蔵

このごろ、NHKの[勝海舟]は、かならず見る。それは萩原健一の岡田以蔵が見たいからだ。

今夜は、以蔵と田中新兵衛(渡瀬恒彦扮演)の二人の人斬りがしんみりと酒をくみかわしつつ、人斬りの悲哀と宿命を語り合うシーンがある。
ここに、まったく新鮮なイメージの以蔵と新兵衛があらわれた。

——中略——

今度の二人の若い俳優の独自の演技は、まさしく見る者の胸に迫ってくる。

むかしからの同じ人物、同じテーマ、同じ題材をあつかっていても、これだけの新鮮さが出ることに、私は感動している。

新しいといっても、鬼面人を驚かす体のものではない。

二人の俳優は意識していないのかも知れぬが、彼らの演技の根本は、人間そのものの本体……その心情をギリギリに煮つめたところにある。だから見るひとのこころをうつのだ。

ただ単に、新しいといってすませられるものではない。

以上『映画を食べる/池波正太郎』〈河出文庫〉

編緝子_秋山徹