令和四年 芒種
禁忌・タブー
ああ、〈女について〉
道徳は風
芒種_麦秋の時期を迎え、黄金色の麦の穂の表面には細い針のような芒(のぎ)の姿を確認できる。
【芒】は、白川静『字通』によれば、「艸の耑(たん・はし)なり」とあり、穂の先に出ているのぎをいう。稲や麦など、のぎのあるものを芒種といい。先の鋭いものを芒刺・芒刃という。訓義①のぎ②け、けさき③はり、ほこ、ほこさき—など
秋の薄(すすき)も芒と書くが、これは日本独自の国語で本来の漢字にこの意味はない。
最近、麦秋に至り実った麦が風に揺らぐ風景を想像すると、麦穂にある芒の棘が妙に気になるようになった。
風に撫ぜられる無数の芒が、その年の風の香を決め、その香を風が街や村を吹き抜けて運び、そこにある空気を変えていく。
芒は、無数の麦穂である人々の触覚である。
この触覚に触れた風が、空気に触れて地域の雰囲気を変えていく。それが道徳であったり、行動規範の特性・性質であったりする。
以前、2018年の穀雨に『道徳は風』というコラムを書いた。
「東北大震災の際に津波によって流された金庫5700個が、中身の現金合計23億円ごと警察に届けられられた」というニュースなどを紹介して、日本人の〈人のモノを拾ったら、拝借せずに届ける〉という意識は、美徳とも言って良い特性であり、これは〈恥の文化〉にもつながるとした。また、〈道徳は風〉であり、風は常に動き移動している。そして、良きにつけ悪しきにつけ、その時代その時代の風が吹く、しかし、悪い風は我々の一人一人の心がけで変えることができると書いた。
落し物に対する日本人の特性は変わらず、令和三年の統計では、年間約280万件以上の落し物が警察に届けられ。そのうち現金は33億8千万円、その73.2%の25億3千万円が落とし主に返還されている。落し物数の上位に、携帯電話と財布があるが、それぞれ87.2%と70.5%の返還率となっている。(警視庁HP/遺失物取扱状況)
これが欧米からの旅行客には信じ難い事らしく、日本では携帯と財布を落としても戻ってくるという神話が出来上がっているという。この道徳の空気、風が吹き続けていることは大変良い事であると思う。
嫌な風
しかし、最近、少し嫌な風を感じることが多い。
それは、セクハラ、パワハラ、モラハラといったハラスメントに対して過剰に反応する風だ。さらに、コンプライアンスという名の元に行なわれる他人に対する批判がある。本来、コンプライアンスとは企業の法令遵守に対するものだが、これが、個人の行ないに対しても使われるという、いささか筋違いのことが多い。
ハラスメントやコンプライアンスを金科玉条のごとく、他人の行ないを細かく論(あげつら)う風潮がここ最近あるように感じて、随分、せせこましく窮屈な世の中になってしまっているようで息苦しい。
〈金言耳に逆らう〉ではないが、小煩い爺いを目指す天邪鬼な私にとっては、大変生き辛い世の中になった。
特に、興味本位の記事ばかり載せている週刊誌や、SNSなどの落書き同然のネットの投稿などをこれ見よがしに取り上げるTVニュースなどを見るに腹立たしい。
いつから、週刊誌やTVはモラルの番人となったのか。
先日、大変人気のあるらしいバンドのメンバーが不倫をしていたため、メンバーの活動停止と、そのバンドのコンサートが中止になったというニュースを見た。
不倫をしてそれが表に出たら、音楽活動を停止なければならない理由が全く理解できない。もちろん不倫は褒められたものではなかろうが、それは公ではなく全く私的な問題である。
以前、TVで「芸能人は半公人ですから」と発言しているタレントがいたが、馬鹿を言っちゃあいけない。芸能人や歌手、バンドマンなんて、しょせん皆河原者ではないか、我々は、品行方正でない常識の外側にいる人間を見たくて金を落とすのだ。「不倫がどうした」と、もっと誇りを持って河原者を貫いてほしい。
兼好法師
せせこましく息苦しい世の中になる前、禁忌とも言える〈女について〉現在では大事になりそうな、とんでもない意見を堂々と書いて発表した男たちがいた。
以前のコラムで紹介した『男重宝記/なんちょうほうき』の作者である苗村丈伯は、その前年元禄五(1692)年には『女重宝記/おんなちょうほうき—元禄若者心得集—』を執筆している。
両方とも「元禄の世の若者が知っておかなければならない常識を、便利な読みやすいマニュアルにして、江戸時代を通して種々刊行された流行の書」と江戸時代のベストセラーとなっている。
そのベストセラーの序に苗村丈伯は次の一文を載せている。
「筆とりむかい参らせ候。徒然草に、女の性は皆ひがめり、人我(にんが)の相ふかく、貪欲甚だしく、物の理をしらず、直(すなお)ならずして、拙きものは女なりと、兼好法師も書かれ申し候。又、唐(もろこし)には金玉(きんぎょく)を宝とせず、善をもって宝とすと、大学〈四書のひとつで孔子の遺書とされ初学の入門書とされる〉にも御座候よし。今この五冊の草子に、女の善を述べあらわして、かのひがみを揉(ため)なをし、女の覚えてよき事を書きあつめて、かの拙きを直ならしめ申候。よって外題を女重宝記となづけ候えべく候。かしこ」
これから読んでもらう読者である女性に対して、言うに事欠いて「君らの曲がった性根が、この本を有り難く読むことで直りますよ」と書いている。しかし、よくこれでベストセラーになったものである。版元もよくこのまま売り出したと思うが、これが元禄の世では平気だったのであろうか。
序の文中赤字部分は、作者も記しているように『徒然草/107段』の文章からの抜粋である。
それでは、本家本元の吉田兼好の『徒然草』(1330年)の文章を見てみよう。少し長いが掲載する。
『徒然草/107段』
かく人にはぢらるる女、如何ばかりいみじきものぞと思ふに、〈女の性(しょう)は皆ひがめり。人我(にんが)の相深く、貪欲(とんよく)甚だしく、ものの理(ことわり)を知らず〉、ただ、迷ひの方に心も早く移り、詞(ことば)も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず、用意あるかと見れば、又あさましき事まで、問はず語りに言ひ出(いだ)す。深くたばかり飾れる事は、男の知恵にもまさりたるかと思へば、その事、あとよりあらはるるを知らず。〈すなほならずして拙きものは女なり。〉その心に随ひてよく思はれん事は、心憂かるべし。されば、何かは女のはづかしからん。もし賢女(けんぢょ)あらば、それもものうとく、すさまじかりなん。ただ迷ひを主(あるじ)として、かれに随ふ時、やさしくも、おもしろくも覚ゆべき事なり。
これを現代訳にすると「こんなふうに男を惹きつける女というものが、どれだけ良いものかといえば、〈女の性根はゆがみ切っており、我が強く、欲深く、ものの道理をわきまえない〉、やたらと悟りの妨げとなるものに飛びつき、口が達者なくせに、都合の悪い事をこちらが問えば黙り込む。そこで、思慮しているのかと思えば、聞きもしないのに下らない事をしゃべりだす。本心を表さず外見をつくろうことでは、男よりも長けているが、すぐに見透かされていることに気づかない。女とは〈素直さに欠けた、拙い存在であることよ〉。そんな女心に良く思われようと努力するのは、うんざりする事である。なんで女なんかに気遣う必要があるのだろう。もし、賢女というものが存在するなら、それはそれで、ぞっとする存在に違いない。その色香に惑わされて言いなりになっているときにだけ、女は優しく魅力あるものと感じるに過ぎない」となろうか。
どうした、吉田兼好。
『徒然草』は物語ではなく随筆であるから、登場人物の台詞ではない。吉田兼好の本音である。
よほど女性に酷い仕打ちを上けたのか、はたまた、狂おしく恋い焦がれた女にこっ酷くフラれたのか。
兼好は30歳前後に出家して隠遁者となっているが、その理由は女性によるものではなかろうか、そう邪推するほど、この一文は女性に対して大いに偏見に満ち満ちている。
哲学者の過ち
海外では、ドイツの哲学者ショウペンハウェルが『女について』(1820年前後)を書いてやらかしている。
「女は、精神的にも肉体的にも、大きな仕事をするには生まれつきふさわしくないのである」という書き出しで始まるこの本には、「女には音楽以外の芸術は理解できない」はたまた「我々の子供のころの養育者、教育者として女性がまさに適しているのは、女性自身が子供っぽくて、愚かで、浅墓で、一生大きな子供だからである。つまり、本来の人間というよりも子供と男の間にある中間段階の種なのである。我々大人が子供と一緒に一日中戯れ、踊り回り、歌っている少女を観察したとき、男性が努力によってその少女の役割ができると考えるだろうか」と続き、さすがに少しやりすぎたと思ったのか、最後の方では「女がいなければ、われわれの生涯は、その始めには助けを欠き、その中期にはよろこびを、その終わりには慰めを欠くことになろう」とややフォローしているが、時すでに遅し、ショウペンハウェルはこの本により〈永遠に女性の敵〉となってしまった。
ショウペンハウェルは、その生涯で、父親の財産を使い果たしてしまった母親と妹と絶縁したり、恋愛において女性に酷い仕打ちをされている。
ゲーテとも親交があり、仏教哲学にも精通していたショウペンハウェルであるが、どうもこの『女について』は、哲学者というよりは、個人的な恨み辛身が反映されているように思える。
ショウペンハウェルに比べてニーチェは冷静である。
『善悪の彼岸/第4章箴言と間奏曲』から
「女性は、魅惑する術を忘れるに比例して、憎悪する術を覚える」
「同じ情欲でも、男と女ではテンポが違う、このゆえに、両性は誤解することをやめぬ」
「愛か憎しみが共演しないと、女性は下手な役者である」
「復讐と恋においては、女は男よりも野蛮である」
いかがであろうか、思わず頷いてしまいそうである—おっと、危ない。
以上、先人たちの過ち(?)である。
現代において、特に最近は〈女性について〉何かを赤裸々に書くのは禁忌・タブーとなった。
女性と仲良くなりたい私には、決して先人たちのような考えはない—決して。
しかし、ニーチェは見抜いている。
「よき評判を得るために自己を犠牲にしなかった何人があろう?」