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令和四年 寒露

2022年10月8日 ~ 2022年10月22日

旅は道連れ

旅に添乗する人

菊枕

寒露_朝露は冷え冷えと、秋の深まる匂い漂う候。

九月九日の「重陽」は別の名を「菊の節句」というが、新暦では菊の開花にはまだ早く、十月のこの時期が菊の盛りとなる。

菊は、奈良時代に薬草として中国から伝わってきた。
重陽の日に摘んだ菊の花びらを乾燥させて枕に詰め込んだものを〈菊枕〉という。

菊の香りが精神の緊張をほぐしてリラックスさせ、安眠の効果があるという。また、その馨しい菊の香に包まれて眠りにつくと、恋人が夢に出てくるとされたため、女性が想いを寄せる人に贈ったという。

互いに想い合う者同士なら幸せなことだろうが、そうでない場合は〝悪夢〟となりはせぬか。

10月1日の時点で、コロナ関連の入国制限が解除もしくは大幅に緩和された国がずいぶんと増えた。(以下、解除となった国々/欧州:イタリア、フランス、イギリスなどのほとんどの国/アジア中近東:タイ、イスラエル、ウズベキスタン、ベトナム、マレーシア、モルディブ、モンゴル、ヨルダン/アフリカ・エジプト/北南米:カナダ、アルゼンチン、キューバ、コスタリカ、チリ、メキシコ/オセアニア:オーストラリア、ニューカレドニアなど/10月1日現在)

もう少しで海外旅行が以前と同じように楽しめそうな雰囲気である。

旅、特に海外における旅行とは非日常を楽しむものだが、日常とは違う精神状態に陥り、人は時として悲喜交交(こもごも)の事態を引き起こす。

立秋」のコラムで書いたように、20年近くパリとフィレンツェの免税店の日本事務所をやっていた私は、旅行会社の他に、団体旅行のツアー・コンダクターいわゆる添乗員との付き合いが多くあった。

添乗員は、数人から数十名の団体旅行に同行し、旅程にアクシデントが無いよう、また、起こってしまった場合には速やかに対処して、ツアーが滞りなく日程を全うさせるという中々大変な職務である。

団体の人数が多ければ多いほど、起こる問題の数と難易度は増す。見知らぬ人間同士が団体となる旅行、ましてや海外という非日常の世界であればこそ起こるツアー客同士の諍い、個人の問題行動などのトラブルは、ツアー客の精神状態が日常とは違うため対処が難しく、添乗員の気苦労は絶えない。

だから、経験を積んだベテラン添乗員になればなるほど、数多くの逸話を持っている。

今回は、彼ら添乗員から聴いた海外旅行にまつわる話をいくつか紹介したい。

パリ症候群(シンドローム)

複数の欧州旅行専門のベテラン添乗員が口を揃えて云うものに、ツアーがパリに入ると突如として精神に変調をきたす人がいるという。

かつて欧州旅行の人気コースは「ロン(ドン)・パリ・ローマ」と呼ばれる三都市を1週間から10日で周るパッケージ・ツアーだったが、このグループがパリに入った際にツアー客が精神的なトラブルを起こすケースがあるというのだ。

これは、三都市をめぐる順番には関係なく、必ず起こるのはパリであるという。

ある添乗員が経験したトラブルでは「ルーブル美術館で、それまで他都市でまともであった中年の女性が、ルーブルでは度々、立入禁止のラインを越えて美術品に近づこうとしては注意され、その回数が度を越したため駆けつけた警備員に、あろうことか、いきなり飛び蹴りを食らわして逮捕された」というものだ。それまでの彼女は、全く世話を焼かせることもなく、ツアー中は何事もなく普通に行動していたという。

また別の添乗員は「パリの高級ブランド店にグループを案内した際、なかなかバスから降りてこなかった、やはりこれも中年女性客が、短いスカートの下に男性用のズボンを履き、頭にはネクタイを二本鉢巻にして店の中央で仁王立ちになって動かなかったこと」があるという。

ルーブルの飛び蹴り客は警察連行ののち精神科に入院となり、ブランド店の客は、家族とともに一足先に帰国いただいたという。

この現象は日本人のみにあらず、国内外の観光客にも度々起こることらしい。古都に漂う妖しげな香りが人の精神を狂わすのだろうか、花の都パリの闇の顔である。

困った道連れ

ツアー客の中には、というか、ツアー客を送り出す人の中には困った人もいるらしい。
これも複数の添乗員が経験したことがあるらしいが、精神に支障をきたしている人が、一人で参加してくることがあるという。本人が海外旅行に参加したいと願ったわけではなく、普段その人の世話をしている家族が、日々の世話を休むために参加させるのだという。

家族にとって、その人がツアーに参加している1週間から10日間の間解放され、家族のリフレッシュ期間となるというのであるが、その世話をさせられる添乗員はたまったものではない。

添乗員のFさんは、いつものように「フランス周遊の旅10日間」のツアーを成田から引率していた。そのツアーにはひとり参加の若い女性がいた。

無事、成田からシャルル・ド・ゴール空港に着いた一行はバスで南仏へと向かった。その一泊目の夜。夕食後のFさんの部屋のドアの下にメモがあった。そのメモには、「話がある」と書かれていて、ひとり参加の女性からの名前があった。

なんだろうと部屋を訪ねると、女性はとりとめもない話をするばかりで、要件がわからない。適当な頃合いを見て切り上げ部屋を出ようとした時、女性は窓へと走り飛び降りるそぶりをしたため、Fさんは大慌てで止めて椅子に座らせた。すると女性は何事もなかったように、また話し始める。

夜も更け、あなたも眠いでしょうからと部屋を出ようとすると、また窓へと走る。再び止めて椅子に座らせる。このあと朝まで、〈窓へ・椅子へ〉を幾度か繰り返した。

さすがに、これはおかしいなと思ったが、昼間の女性には異常な行動はみられない。ツアーの最中であり病院へという状況でもないので、翌日以降もツアーを続けた。と、二日目の夜もドアの下にメモがある。無視するわけにもいかず、また女性の部屋に—そして再度朝まで〈窓へ、椅子へ〉が繰り返された。

寝不足である。本来の仕事にも支障をきたしかねない。

なにより、朝まで女性ツアー客の部屋に男性添乗員がいたのを見られては大変な事態となるので、Fさんは思い切って、事の次第を他のツアー客に話して協力を求めてみた。するとツアー客は積極的に協力してくれ、その日の夜からは女性の部屋に行くFさんに交代で付き合った。女性もFさん以外の人がいることには何も騒がなかった。Fさんにとってツアー客の協力は本当にありがたかった。

こうして、すべての日程を終えて成田に無事戻ってきた時Fさんは、心底ヘトヘトに疲れ切っていた。

特別な体験を共有したツアー客一行には、ある種の一体感のようなものが芽生えていたので、解散するときにはツアー客みながFさんに「本当にご苦労さん」と労いの言葉をかけて家路についた。問題の女性は、何事もなかったように迎えにきていた家族とともに帰って行った。

後日、旅行会社経由でFさんに連絡があった。あのひとり参加の女性の家族から「娘が、Fさんに大切なものをたくさん預けてあると言っている」というものであった。

最初、Fさんにまったく心当たりはなかったが、たくさん預かったもの?とよくよく考えてみると、毎夜ドアの下にあったメモ以外に考えられない。もちろんそんなものは、とうに捨ててしまっている。
旅行会社には、ツアー・レポートで事の次第は報告してあるので、それはメモのことだろうと告げると、その連絡を受けた家族からは、以降、問い合わせはなかったそうだ。

兎にも角にも、そのツアー以上に精神的にも肉体的にも疲弊した添乗はなかったそうであるが、これを毎日繰り返している家族のことを思うと、なかなか怒る気にもならなかったということである。

んっ! あなた と あなた?

添乗員のSさんは、新婚旅行の団体の添乗が多く評判も良かったので新婚旅行というと旅行会社から指名されるようになった。彼女自身は未婚であったが、周りの新婚さんの幸せな雰囲気いっぱいのツアーの添乗を本人は気に入っていた。

当然、すべてのツアーが幸せいっぱいで終わるわけではない。中には旅行中に互いの本性を初めて見て嫌になり、喧嘩では収まらず「この人間とは到底一緒に暮らせない」と、成田に戻った時点で別れてしまう、いわゆる〈成田離婚〉も我々が思っている以上にあるそうである。

しかし、旅行中に複数の新郎新婦が離婚に至る仲違いしたときに、たまに起こるらしいのだが、出発前の新郎新婦と違う組み合わせの新郎新婦のカップルが出来上がっていることがあるという。

迎えにきた家族の混乱ったらない。
「あれっ、新郎って彼だっけ」
「えっ、彼女が新婦?」

これはこれでハッピーエンドだろう。

洒落にならないアクシデントもSさんは経験した。
南仏から豪華客船でギリシャに向かうツアー、これも新婚さんばかりであった。
一拍目の夜、あろうことか、ある新郎が船から飛び降り自殺した。ご存知かもしれないが、大型船は停船するのに時間がかかり、その間かなりの距離進んでしまうため、正確に落ちた場所に戻ることができない。したがって大型船から人が海に落ちると救助できない。ましてや視界の効かない夜間では到底無理である。
ようやく停船してからフランスの海上警察が乗船して事情聴取となった。Sさんは聴取のときには新婦に付き添った。
警察から、自殺の原因に思い当たることはあるかと聞かれた新婦は、言いにくそうに、初夜を迎えた際に私がヴァージンでないことを知り、悲嘆のあまり海に飛び込んだ、と伝えた。

呆れるフランス警察。

事後は、旅行会社のフランス支社に任せて、ツアーは予定通り続けられることになった。これからどうなさいますと、一応Sさんは新婦に訊いた。
新婦は「あんな馬鹿のために、せっかくのクルーズ旅行をやめたくない!」と、彼女は旅行を予定通り終えたという。

身を投げた新郎にとっては、新婦との長い結婚生活を送るよりも、早めに終わらせたのが良かったのかもしれない。

 

編緝子_秋山徹