1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 令和五年 小満

令和五年 小満

2023年5月21日 ~ 2023年6月5日

恋のイソップ物語

色好み寓話集

 

路頭の儀に業平が

小満_陽光が満々と降り緑萌える時候。

この五月十五日には四年ぶりに祇園祭、時代祭にならぶ京都三大祭りのひとつである『葵祭(正式名は賀茂祭)』の「路頭の儀」が催された。
「路頭の儀」では、平安貴族そのままの姿の王朝風の優雅な列が京都御所を出発して京都市中を練ったあと、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう。
今年は上皇ご夫妻も観覧された。

『祇園祭』『時代祭』が庶民の祭りであるのに対し、平安時代から続く『葵祭』は貴族の祭りである。

平安の御世に在原業平が見物人の中に見目麗しき婦人を垣間見ていたのではと想像してたら、実際、『伊勢物語』104段に、業平が恋い慕っていたが、今は尼となってしまった元斎宮(さいぐう)の恬子(てんし)を見かけて彼女の車に歌を送ったとあった。

「清明」のコラムで桜を詠んだ歌について書いている中で、在原業平の歌、その業平を酷評した紀貫之、そこから貫之の著作『土佐日記』を読むという流れになったのだが、そうなれば業平を主人公とし彼の歌を核とした『伊勢物語』(角川文庫 付現代語訳)を読まなければ片手落ちと読み、この場面を知ることとなった。

『土佐日記』と続けて書けなかったのは、『伊勢物語』は一話が短いとはいえ125段(話)あるからであるのと、私の生来の怠け癖からである。

色好み百変化

別名「在五中将物語〈在五が物語〉」とも呼ばれる『伊勢物語/全1巻125段』は、在原業平の元服(14、5歳)からその死(53歳)までの物語である。
※「在五中将」とは原家阿保親王の男で官職右近衛中将であった業平の通り名である。

感想、『土佐日記』よりも断然面白い。
内容、「色好み寓話集」「恋のイソップ物語」である。

ほとんどの段が〈むかし、男〉もしくは〈むかし、男ありけり〉で始まり、〈男〉が在原業平とはっきりは書かれていないが、63段の中に在五中将という名が出ており、また、業平と関わりのあった「二条の后/高子(たかいこ)」「伊勢の斎宮/恬子」の二人が実名で登場(実名はこの二人のみ)していること、何より業平の詠んだ歌が物語の中心となっていることが、業平物語とされる由縁である。

だが、詠み人知らずの歌も多いことや、とても業平の所業とは思えぬ話もあり、主人公業平説を否定する向きもあるらしい。これは、日本の古典が書き写しを重ねて残されてきたことに要因があるようで、誤写や写し手が勝手に話を創作し付け加え、本来の物語と趣の違う話が加わってしまた結果であろうという。
この現象は、レオナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』が修復という名の下に加筆され本来の姿が隠れてしまっていたことに似ている。もっともダ・ビンチの『最後の晩餐』の方は、現在、余分な加筆が取り除かれて本来の姿を取り戻している。

さて、主人公在原業平の人となりであるが、生まれはもともと皇族で平城天皇の皇子阿保親王の五男であったが、当時の権力者藤原一族により二歳で臣下の身分とされ在原姓となる。

業平について『三代実録』という書に「体貌閑麗、放縦拘わらず、ほぼ才学なきも、よく和歌を作る」とあり、姿・容貌は優雅で美しく、何事も気ままに振る舞い、当時主流の〈からうた(漢詩)〉ではなく〈やまと歌(和歌)〉は上手に詠むというところであろうか。

まあ、藤原一族に主流から外されて気ままに和歌を詠む色男であるから出世は見込めまい。ましてや、のちに陽成天皇の母となる若き頃の「二条の后/高子」と駆け落ちしたり(7段)、天皇の代理として伊勢神宮に遣わされていた皇女「伊勢の斎宮/恬子」という決して手を出してはならぬ女人にちょっかいを出せば(69段)、地方に飛ばされても仕方があるまい。しかし、そのおかげで「東下り」(9段)で有名な二首が生まれている。
この時の二首
からころも 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う
名にし負はば いざこととはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしや

業平が出世を気にせず色好みに走り、多くの女人たちに歌を捧げたおかげで、九世紀の平安の世から二十一世紀の令和の世まで彼の名と歌は遺り愛しまれることになった。藤原様様である。

こんな業平を主人公とした『伊勢物語』であるからその中身は、種々のラブアフェアー満載で男女間の色好みのあらゆる機微が描かれている。

まず「初段」からして、元服したばかりの十四、五歳の業平が、塀の外から垣間見(のぞきみ)したら、美しい姉妹を発見し、すぐさま着ていた上衣の裾を切り、それに歌を書いて渡したという話から始まる。いや、ませたガキである。
以降は、女人に焦らされたり、無視されたり、逃げられたり、恨まれたり、浮気を心配したり、一夜限りを嘆いたり、九州にまでその色好みが伝わっていたりという話が繰り広げられる。

有名ではない段(話)だが、なかなか面白いと思った63段(九十九髪)を紹介する。
「ある色好みな女が、情愛深い男が欲しいと思い募い、きっかけを作らんがため、三人の息子に夢の作り話をする。三人のうち長男と次男は相手にしなかったが、末っ子が母親を可哀想に思い。業平(この段のみに在五中将という名が記される)に、我が母の相手をと頼む。業平は九十九髪(白髪)の老女(母親は30代後半から40歳くらいであったが、この時代は老女の範囲に入ったらしい)と思ったが、その夜、共寝する。その夜以降、業平は女の元には通わなかったが、女は業平の家を垣間見たり(のぞき見)して様子を伺っている。それを不憫に思った業平は再度女の元に行き共寝をしてやった。業平は好きな人に対しても、好きでない人に対しても区別しない心を持っていた」
という業平が単なる色好みではなく、真のフェミニストであると描いている—のだろうか。

また『伊勢物語』の中には、業平が「雅な心」(粋で垢抜けた心)を心がけ、「鄙びた心」(田舎染みた無粋な心)を疎んでいたことや、男女の隔たりなく「心尽くす」(細やかな配慮をする)行動をすることなどが描かれる。

そして最終の125段で「むかし、男、わずらひて、心地死ぬべく覚えければ—つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを」と、いつかは死ぬのはわかっていたけれど、今日とは思わなんだ、と詠んで五十三歳で亡くなる。

『大和物語』には、この亡くなる直前まで業平は「弁の御息所」という高貴な女性の元に通っており、生涯色好みの現役であったと記されている。

『伊勢物語』を読むに平安の男が羨ましくなる。なにせ一夫多妻制で、夫婦のあり方は基本的に夫が妻の元へと通う〈通い婚〉である。結婚も男が三日続けて通うと成立し、その夫が三年間通わなければ離婚成立となる。男にとってかなり自由奔放な夫婦生活である。
何より羨ましいのは、平安の時代は母系相続であり財産は娘が相続したので、男は裕福な家の娘と夫婦になれば豊かな暮らしができた。夫の身の回りを揃え誂えるのは妻の役目(財産)で、夫が妻の元に通わなくなってからも依頼することがあり、妻はこれに応えたという。いやあ、ほんに羨ましい。

『伊勢物語』『土佐日記』『源氏物語』などの平安時代の文学は、科白が和歌であり主題である、そのほかの文にはあまり重きが置かれていないというか、和歌に対する詞書程度のものである。よって、和歌を解釈し味わうことが古典の本来の接し方であろうが、その素養がない私は、今回も和歌以外の部分の筋書きだけを読んだに過ぎない。
それでも十分面白いもので、学生時代の古文の授業という響きさえ外せば楽しめるのだから、私の脳味噌のシンプルなことよ。

口が裂けても『伊勢物語』を堪能したとは言えぬ。

唯一、物語の115段で送別の宴を「馬のはなむけ」と記していて、これは『土佐日記』にも〈舟旅なのに馬のはなむけ〉という記述があり、昔、旅立つ人の乗る馬の鼻を、旅先の方向に向けて無事を祈ったのが、餞(はなむけ)となり、旅立つ人に金品を贈る餞別や送別の宴を意味するようになった、という雑学のみが我が頭に残りそうであるのが悲しい。

 

 

編緝子_秋山徹