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令和五年 処暑

2023年8月23日 ~ 2023年9月7日

あぁ 栄冠は君に輝く_其の1

となりの球春

処暑_暑さが処〈落ち着く〉時候とあるが、もうそろそろそうあってほしいと願う時期ということか。

処暑の「処」の字は、人が几(肘掛)でくつろいでいる様を表現したもので[おちつく・すむ・やどる]という意味で暑さが処[おちつく]頃という意味であると、以前も記した。しかし実際には、暑さがまだ横たわり処[やどって]いる時候というのが、旧暦と新暦の月日の誤差に加え、暦の先取りをする日本の特徴であろう。

この暑さの中、甲子園では高校球児が熱闘を繰り広げ、慶応と仙台育英が本日決勝戦を迎える。では、お前は夢中になってこの熱闘大会を観ているのかというと、全く観ていないし興味も持っていない。

この時期になるとテレビにかじりついて観戦するのに夢中で仕事どころでない人や、夏期休暇は必ず甲子園まで足を運び観戦することを楽しみにしている友人・知人が廻りにいるので、なぜ興味がないかは記さない。ただ、私にとってはMLBで大谷を観る方がはるかに楽しいとだけ記す。

しかし、過去の甲子園大会とは少しだけ関わりがある。

春の椿事

まず郷里の北九州市小倉と甲子園の関わりとして、小倉・豊前小笠原藩の藩校であった〈小倉高校〉が、夏の甲子園第28回大会(1946年)から第33回(1952年)の6年連続を含め計7回出場し、第29回大会(1947年)と第30回大会(1948年)に連続優勝している。また春の大会にも第19回(1947年)から第21回(1949年)まで3年連続3回出場しており第19回大会では準優勝を遂げている。

夏の甲子園連覇の1947年と948年は、中学5年制から中・高3学年の六年制に学制改革が行なわれた狭間の年で、1947年の第29回大会優勝は〈小倉中学〉、第30回大会優勝は〈小倉高校〉と記録には遺っている。

〈小倉高校〉は元藩校にふさわしく学業優秀な学校で、現在でも地元の旧帝大・九州大学や東大・京大、早慶などの難関私立大学への合格者を多く輩出している。県立高校ながら近隣の市町村から越境入学をしてくる生徒も多い。

我が親戚には学業に出来の良いものが多かったので、お前も小倉高校のち九州大学へ進むのだと、幼い頃から嫌という程聞かされてきたが、元来の能力不足に加え、日々の努力を怠るという致命的な欠点のために小倉高校への入学は叶わなかった。己の怠惰のせいでありながら、二次志望の高校へ進んだ私は、すっかりイジケ、不貞腐れてしまい。やらなくてよいワルさを繰り返して、とうとう2年生の冬に退学になってしまう。放校後、運良くどうにか他県の私立高校へ潜り込むことができた。このように小倉高校は私の人生における最初の大きな躓きだと、自分の愚かさを棚に上げて勝手に逆恨みしている、あとに通った高校は後ほど登場する。

とまれ、甲子園大会である。

私も人並みに甲子園予選の球場に足を運び応援したことはある。それは母校のためではなく、他校の野球部の友人のためにである。

第45回(1973年)選抜高等学校野球大会には、小倉から〈小倉南〉と〈小倉商〉の二校が同時出場した。ほぼ隣同士の高校二校が出場できたのは、県代表が集う夏の大会とは違い、春の大会は九州大会の1位と2位が出場するため起きた出来事であった。
両方の高校の野球部に友人がいた私は、大会をドキドキしながらテレビ観戦した。

試合結果は—両校とも相手が悪すぎた。

2回戦から登場した〈小倉南〉が対戦したのは、なんと〝昭和の怪物・江川卓〟を擁する栃木の〈作新学院〉、予想通り江川の前に為す術なく10三振の0対8で敗れた。この大会の準決勝まで4試合に登板した江川卓は60個(北陽19個/小倉南10個/今治西20個/広島商11個)の三振を奪い、これは1大会における通算奪三振数の新記録となり、この数は現在も抜かれていない。4戦の中では〈小倉南〉が一番三振数が少ないのが救いのように見えるが、点差が開いたため江川は7回で降板しており、9回まで投げられていれば広島商よりは多かったと思われる。

もう一校の〈小倉商〉は、1回戦で東京の〈桜美林〉を4対2で破り2回戦に駒を進めたまでは良かったが、2回戦の対戦相手がこの大会を制し優勝した〈横浜〉、延長13回まで試合はもつれたが結局2対6のサヨナラで敗れてしまった—惜しかった。

この時の〈小倉商〉のエースが〝門田富昭〟で、のちに西南学院大学に進学し「西の江川」と称されるほどの活躍をした。大学卒業後は、大洋ホエールズにドラフト1位で入団、プロ野球選手として9年間の現役生活を送った。直接彼とは知り合いではなかったが、大学でバッテリーを組んでいた〈小倉南〉出身のキャッチャーが私の友人だった。

小倉という狭い地区から二校が同時出場した時には大いに期待したが、片方が怪物江川に、もう一方が優勝校に延長の末敗れたとなれば、ほとほと運がなかったということだ。後にも先にも、私の友人・知人が甲子園に出場することはもうなかった。

この2年後の私が高校3年生の時、第47回大会(1975年)春の大会では、地元北九州の出場校で信じられない事態が起きた。この大会では〈門司工〉が出場権を掴んで甲子園に到着し、まさに開会式の予行練習も終えたというその時に、同校の生徒2人が強盗および暴行未遂等で逮捕されたため、開会式当日に急遽出場を辞退するという事態が出来した。

同校生徒が逮捕された事件は、あらかじめ目を付けていた団地の部屋のベランダ越しに(よりによって)野球のボールを投げ込み、すみませんキャッチボールしていて誤ってボールがベランダに入ってしまいましたと訪ねて、出てきた若い奥さんに強盗・暴行を働こうとして騒がれたため、近所の住民の通報により逮捕されたというものであった。

この時、代替で出場することになったのは、長崎〈佐世保工〉だが、あまりに急な出場となりましたが大丈夫ですか、と訊くテレビ取材のアナウンサーに、佐世保の監督は「門司工が代表と決まった時点で、こういう事態も想定して練習していましたので大丈夫です」と答えた。多分すごく正直な性格の監督なのだろうが、なにもテレビで言うこたぁないだろうに、と高校生の私は思った。

たしかに、佐世保の監督がもしやと代替え出場を準備したのが理解できるほど門司工は不良の巣窟のような高校(半世紀ほど前の話なので、現在はわからない)であったが、それだけに甲子園出場というのは快挙で、学校の名誉であったのに、事件を起こした生徒も同じやるとしても今ではあるまいにと思った。この二人が少年院出所後、無事では済まなかったろうなというのは想像に難くない。

これも、忘れ得ぬ甲子園がらみの思い出のひとつである。

今年の夏の甲子園大会が始まってすぐのこと、病院の待合でふとテレビを見たら、甲子園のテレビ中継が流れていた。何気なく画面を見ていたら試合をしている高校の名前に目が止まった。退学になった後に通ったふたつめの高校の名前がそこにあったのである。

あぁ 栄冠は君に輝く_其の2に続く

 

編緝子_秋山徹