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令和六年 大寒

2024年1月20日 ~ 2024年2月3日

判断中止

災三種

未曾有は佳き事

大寒_寒風吹きすさぶ枯れた色の景色の中に、隣家の庭木の南天の赤色が滲みる。

我が家の正月飾りも、青竹に松を立て廻りに南天を散らしたものであった。「南天」の音の〝難を転ずる〟という良い縁起が被災地の方々に届けば良いと願うのみである。

前回のコラムで、今回の能登半島輪島地方の地震を「未曾有〝未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らざる〟」と当てたが、未曾有と表現するに憚られるほど、日本には古来より度々大きな自然の災いが襲い、ひどい爪痕を残す。

日本人の性質・特性ともいうべき、我慢強さや緊急時の冷静さ、規範の取れた行動、他者との共存意識、といったものは、この災害大国という環境が培ってきたものとも言えるだろう。この特性が、平時には従順すぎるという指摘を受けることもある。

本来は仏教の言葉である未曾有は、「殊勝(ことにすぐれた)」と訳されもするほど〝素晴らしい〟〝めでたい〟ことを形容し表す言葉で、不吉なこと、悪しきことには用いないのが元々の使い方であるという。だから「未曾有の出来事」というと本来は「未だ曾てなかったほどの素晴らしい出来事」となるのが、いつの間にか〝惨事〟や〝悪事〟に使われるようになったらしい。

未曾有と表現したくなるほど素晴らしい出来事は本当にめったに起こらず。悲しいかな、逆に起こってほしくない惨事は佳き事以上に出来し、もう二度と起こってくれるなよという願いを込めて、未曾有と形容したのが変遷の理由ではなかろうか。

今回の災害でも、救助活動、災害対策の初動、ボランティア活動などについての問題が種々取りざたされている。いつも残念に思うのが、災害大国日本ならば、他国に抜きん出た災害対策のシステムを持っていておかしくないのに、これが無い。もしくは我々一般の国民に周知されていないという事である。自衛隊や各都道府県消防隊の救助活動には頭が下がるが、国としての確立されたシステムを感じないのである。民間ボランティア団体との連携などを含めたダイナミズムを感じない。この辺のことについては、以前『メロンパンの悲哀』というコラムで書いた。

今回はこのコラムらしく能天気に、過去の大震災の際のことを書いてみたい。

「震災」「テロ」「過労死」

今より二十九年前の1995年(平成7)1月17日05時46分、「阪神・淡路大震災」が神戸を中心とした関西地方を襲った。

その日、私が震災を知ったのは、出版社の友人からの電話であった。早朝に珍しく鳴った電話に、てっきり締め切りを2日も過ぎた原稿の催促だと思って出た受話器の先で、彼は興奮気味に「テレビ見てる?神戸が大変だよ」と告げた。

慌ててテレビのスチッチを入れると、いきなりヘリコプターからの映像が——あちらこちらから火の手の上がる神戸市街や倒れた高速道路の姿が飛び込んできた。新たな被害状況が画面のテロップに次々流れてくる。呆然と画面を凝視していると三宮駅近くの生田神社の社殿が崩れ鳥居が倒れている映像が流れた。そして、その横の建物が倒壊している画を見て思わず息を飲んだ。その建物は、私が関西に出張する時に泊まるホテルである。もっと言えば、今書いている原稿が予定通りに書き上がっていれば、私はこのホテルに震災の前の夜にチェックインしてるはずだった。そう、私は今テレビ画面で見ているこの建物の下敷きになっていたのだ。どうしても締め切りまでに原稿が上がりそうに無いと観念した私が、ホテルと航空券の予約、アポイント先の予定をキャンセルしたのは、ほんの3日前のことだった。

さすがの私も運命論者にならざるを得なかった。殊更〝生かされた〟のだから日々を大切に、とまではならなかったが、少なからず心の隅に〝なぜか助かった〟という気持ちはあった。

同年の3月20日には、サラリーマンの通勤時間を狙った卑劣なテロ事件「地下鉄サリン事件」がオウム真理教によって起こされた。これは丸ノ内線、日比谷線、千代田線という私にとって馴染みのある地下鉄での凶行である。月曜日の朝のラッシュ時という私には一番縁遠い時間帯であったため、切実な恐怖を感じるとまではいかなかったが、目と鼻の先で起こった惨事は、これも私の心にうっすらと影を落とした。

これは同年かどうか、起こった季節も忘れてしまったのが、「阪神・淡路大震災」や「地下鉄サリン事件」よりも後の出来事であるのは確かである。三日ほど徹夜に近い状態で原稿を上げ、その原稿を手に朝一番の新幹線に乗ろうとした朝だった。丸ノ内線の改札からJR構内を抜けて、新幹線の改札からエスカレーターでホームに上がりきったところに、ひとりの壮年男性が倒れていた。廻りには駆けつけたらしき駅員が3名介護していた。男性の顔は蝋を引いたように、白色というより色がなかった。素人目にも、ああ、この人はとても助からないだろうなと思った。

打ち合わせを終え、とんぼ返りで夜中に東京に戻った翌朝、昨日のことが新聞に載っていた。倒れていたのは、キリンビールの役員兼営業本部長さんで、心筋梗塞で倒れ心肺停止の状態で運ばれたが、搬送先の病院に到着した時にはすでに亡くなられていた、ということだった。

この数年前に発売されたアサヒビールのスーパードライが大ヒットして爆圧的に売れ、キリンビールとアサヒビールの売上シェアが逆転しビール業界の勢力図が塗り替えられたばかりの頃だった。失った業界1位の座を取り戻すべく、営業本部長さんは日々全国を飛び回っていたということだった。のちに「その日も元気に自宅を出たのに」という奥さんのコメントを目にした。

この時期の私は、独立して三年目で、とにかくしゃかりきに仕事を受けた。依頼された仕事はほぼ断ることなく引き受けたため、慢性的な寝不足であった。それに加え、仕事の付き合いという名目で連夜の夜遊びにも勤しんだ。体に良かろうはずがない。この頃から痛風が持病となり、足が腫れ上がるという発作が頻繁に出ていた。

そんな中で、「震災」「テロ事件」「過労死」と続いて起きた出来事は、がむしゃらに走り続けてきて心身ともにダメージが出始めた私を一旦立ち止まらせた。

この時私は、あらゆることの判断を、過去の価値観などに捉われることなく、ゼロベースにして新たに現在の自分の価値観と判断基準を持って構築するという、哲学用語にすると「エポケー(判断中止)」を行なった。「再構築」と言っても良いかもしれない。

この時の作業で培った「死生観」「人生観」というものが今も私の信条の根幹になっている。当然、年齢によって微調整は行なっているが、大本はほぼ変化していない。

私は、「震災」「テロ事件」「過労死」に接して、人間どのように生きようが死ぬときは死ぬ、すべからず人は必ず死ぬ、という当たり前のことが、初めて頭ではなく心に落ちた。
誰の言葉かは忘れたが「いつ死んでもいいように、いつ失われても良いように、今すべて、ただそれだけ」が、私のモットーとなった。とは言っても、私の場合、これが〝清く、正しく、美しく〟〝仕事を第一に真っ当に頑張る〟とならなかった。

「人間本来無一物」死んだら人間は、あの世に金も地位も名誉も財産も持っていくことはできない。稼いだら使いきる。己の心が豊かになることに惜しむことなく時間と金を費やす—良い音楽を聴き、良い書物に接し、美しい物を観て、美しい場所に行き、旨いものを喰い、旨い酒を呑むこと、できれば綺麗なお姐さんにそばにいてほしい。気にそぐわぬ人の仕事を無理にして金を稼いでも豊かにはなれない。自分のやりたい仕事を選べる状況に自分を置くことを第一義とした。

結果、現在借金はあるが貯金はない。仕事も隠居状態である。さて、あの世に持参できるほど心は豊かになったのか、これは死んでみないとわかるまい。

 

編緝子_秋山徹