令和五年 立夏
江戸の遊び
空に泳ぐ鯉
粽の噺
立夏_今年も暦は夏となった。此方の老いと共に季節も移りゆく。八十八夜も過ぎ新茶を待ち遠しく思う。
九州の郷里の我が家では、子供の頃から「端午の節句」は粽であった。そして今でも五月五日には粽を食べる。
江戸時代以前、関東以北では端午の節供は柏餅であったらしいと複数の記事を目にしたが、柏餅自体が江戸時代に登場したとあるので、ちと怪しい。
粽は中国の楚の屈原の逸話から端午の節供として日本に伝わり、平安時代には宮中の端午には用いられていたというほど長い歴史を持つが、柏餅の歴史はそれに反して短いようだ。それゆえか、粽が端午の節句のほぼ期間限定であるのに対し、柏餅は年中どこの菓子屋にもあり、節句とは関係なくいただいているイメージである。(端午の節句についてのコラム)
古い歴史を持つ粽ゆえ、逸話も多い。
鎌倉時代、晩年を身延山(山梨県)で過ごした日蓮の元には、全国の信者から進物が送られたが、弘安元年(1278)の端午の粽を贈られた礼状の中に「ホトトギスの一声のような嬉しい贈り物」という日蓮の一文があるという。
安土桃山の時代には、京の商人が明智光秀に陣中見舞いで粽を持参した際、合戦の鬨(とき)の声が上がったため光秀が慌てて包んだ葉ごと粽を食べたや、本能寺の変の直後に京の商人が粽を進物したところ、やはり包みの葉ごと食べたのを見て呆れ光秀の世は長くないと悟ったという逸話が遺っている。有職故実にも通じる博識で、何より粽が好物であったとされる光秀の振る舞いとは俄かには信じがたく、主君・信長に謀反を働いた家臣という悪役のイメージから生まれた逸話であろうか。
江戸時代の文人で幕臣でもあった大田南畝(なんぽ)は、長崎奉行所に赴任した際、端午の節句に振舞われる長崎特有の黄色くて円形のちまき「唐あく粽」について図を添えて書き留めている。端午の節句には柏餅が定番だった江戸っ子の南畝には、長崎の粽はよほど珍しかったのであろう。「唐あく粽」は現在の長崎でも健在である。
3本もしくは5本を束にした粽の姿は美しい。すくっと伸びた緑の塔から一本抜き取って、底の方の葉を一枚出して巻いたツルを上にグッとまとめて引き上げ、葉と葉の間から粽を出しながら葉を握って齧る。流石に最近は葉を広げて黒文字でいただくが。葉の緑の香が芳しくて好きな和菓子である。
葛で作る水仙粽は笹の葉に包んでから蒸し上げるため、笹の葉の緑が白っぽくなる。今では上等な粽の証拠となる。
江戸の式日
江戸の年中行事を記した書物をみると、「端午の節句」にはどの職人も休みを取ったそうで、また更衣も行なわれた。江戸時代には年に何度かあった更衣でこの時期には、それまで裏地のある袷(あわせ)の着物から、裏地のない単衣(ひとえ)へと替えた。(更衣についてのコラム)
また、家の軒先には菖蒲や蓬を設えて菖蒲酒を呑んで邪気を払った。
※「菖蒲酒」は、アヤメ科の「花菖蒲」ではなく、サトイモ科の「菖蒲」の根を2mmほどに刻み、日本酒に30分程浸して香りが移ればできあがりである。まあ菖蒲湯に使う菖蒲を湯船ではなく日本酒に浸すということである。
武家町家にかかわらず、子供達は男女ともに小ざっぱりとしたなりをして師の元に祝賀に行き、「菖蒲打ち」をして遊んだ。男の子は木刀を金銀の紙で飾った菖蒲太刀でチャンバラごっこをしたが、この菖蒲太刀は初めて男の子が生まれた家庭に親戚から贈られる習わしであった。
※「菖蒲打ち」は菖蒲の束で地面を叩き、音の大きさを競う遊び。
粽と柏餅との記述をみると、大名諸侯は端午の節句のご祝儀として幕府に粽を献上し、町家では自家製の粽や柏餅を食べた。また、江戸では男の子が生まれると、その年から知人や親族に柏餅を贈り。京阪では生まれてから初めての端午には粽を翌年からは柏餅を贈る習わしであったとある。
もともと粽は、葭の串に練った新粉を付けて菰の葉で包み蒸し上げたものを、菰を外して串に刺したまま砂糖をつけて食べていたという。そのうち、京都の「川端道喜」という内裏に餅を納めていた菓子屋が串のない砂糖入りの粽を作り〝道喜粽〟として今の粽の形となった。川端道喜は今なお粽を作り続けている。
江戸の時代には、粽や柏餅は菓子屋に頼むよりも自家製で作る家が多かったといい、柏餅は米粉を練って平たい丸型にした中に砂糖入りの小豆餡を入れ柏の葉で包んでから蒸したもので、江戸には小豆餡と味噌餡の二種類があり、小豆餡には柏の葉を表に、味噌餡には裏側を表にして包み区別した。
「端午の節句」に飾る幟(のぼり)は延享(1844-47)の頃まで素材は紙製のもので、布製になったのは近世のことであるらしい。室内に武者飾りの隣に小形の幟を立てるようになったのも近世のことで、幟が、川を上りきったあと天にも昇り龍となる出世魚として「鯉のぼり」を飾ったのは江戸だけの風俗であったという。
江戸の世には、幕府が定めた人日、上巳、端午、七夕、重陽の〈五節句〉に、二至(夏至・冬至)二分(春分・秋分)四立(立春・立夏・立秋・立冬)を中心とした〈二十四節気〉、立夏でいえば蛙始無(かえるはじめてなく)・蚯蚓出(みみずいずる)・竹笋生(たけのこしょうず)と二十四節気を初侯・次侯・末侯の三つに分けた〈七十二候〉、その他15日ほどの節分・初午・八十八夜・彼岸・大祓・盂蘭盆会などの雑節、年末年始の大晦日・元旦・左義長・薮入りなどの諸行事、これらを全て加えると年間に百二十日間ほど何かしらの式日・節気・行事・時候がある。
実に三日に一度のイベントがあるのである。
江戸の庶民の日々の行事のなんと豊かなことよ。あまり裕福ではない一般庶民も、程度の差こそあれ夫々に楽しみ祝っていたことが浮世絵や草紙などに遺る。これに比べれば現代の我々の日々はまことに貧素である。
和菓子は、これらの日々に合わせて素材や意匠を替えて歩んできた。
和菓子はなんでも冷えた日本酒と合わせてしまう不埒な私は、粽と柏餅を肴としていただきながら、少しでも江戸の人に近づけるよう精一杯の贅沢をするのみである。