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令和五年 大暑

2023年7月23日 ~ 2023年8月7日

隠居の鑑 逝く

わが憧れの隠居

空蝉/うつせみ

大暑_自分が外で降られるのでなければ、ひんやりとした空気を漂わせる夕立とその後の涼風が欲しくなる時期となった。

この時候の「大きく暑い」は何のヒネリもなくて、小暑・小雪・大雪・小寒・大寒のネーミングに並んで好きではない。もう少し何か気の利いた表現がありそうなものだ。中国より伝来のものであるから、しょうがないのかもしれないが、日本人の感性で別の文言に替えて欲しかったとつくづく思うのである。

蝉が一斉に鳴き出した。

先日の夕刻、ベランダでバタバタという羽の音とともにジー、ジーと大きな鳴き声がしたので窓から覗くと、一匹の蝉がベランダのコンクリートの上で暴れている。羽ばたきが激しさを増し最高潮になったところで、〝ジジッ〟と断末魔をあげて動かなくなった。

若い頃は気にも留めなかったが、この歳になると〝これも何かの縁で最期を看取ってやった〟と思うのであるから不思議なものだ。

蝉は幼虫として地中で三年から十数年を過ごし、木に登り脱皮をして殻を木に残して成虫として1ヶ月あまりを生きる。私が子供の頃は1週間程度の命と聞いていたが、最近の研究では15日から30日の寿命であることがわかっているらしい。しかし、成虫としての寿命が短いのには変わらない。

蝉という昆虫の本来の姿とその一生を幼虫期がメインであると捉えれば、成虫として我々が目にする姿は死装束、死へと向かう最後の姿であるといえる。とすると、あの喧しい鳴き声は念仏であろうか。
高橋千剣破の「花鳥風月の日本史」によれば、蝉の鳴き声について西欧人は雑音・騒音としか捉えず、愛でるということは一切しないのだという。油蝉や蜩など蝉の種類によって鳴き声が違うことなど気にも留めないらしい。ましてや虫を籠に入れて売る〝虫売り〟などという商売に考えは及ばない。

蝉が最後の脱皮をして木の幹に残していった抜け殻を〝空蝉/うつせみ〟と呼ぶ。もともと生きている生身の人間のことを〝現(うつ)せ身〟といったが、それがいつの間にか魂の抜けてしまった〝空せ身〟となり、蝉の抜け殻に〝空蝉〟と当てるようになったというものらしい。

ゆえに『古今集』の時代から〝空蝉〟を使った歌は、儚さを詠ったものとなる。

空蝉の殻は木ごとに留(とど)むれど
魂の行くへを見ぬぞ悲しき—読人知らず『古今集』

梢より あだに落ちけり 蝉のから—松尾芭蕉
※あだに=ふいに

ぬけがらの 君うつせみの うつつなや—正岡子規
※うつつなや=はかなげなことよ

また、われわれは『源氏物語』の第三帖としての『空蝉』を識っている。光源氏が告白をしたが、薄衣一枚を残して去ってしまった女性を、光源氏が蝉の抜け殻に寄せて〝空蝉〟と呼び、歌を贈ったことでこの題がついている。

人の死は儚く唐突であるが、魂の抜けてしまった骸〝空蝉〟はその人の人生によって、輝きもクスミもする。

キング・オブ・ジャズ・シンガー

7月21日、トニー・ベネットが永眠した。享年96歳であった。

本名アントニー・ドミニク・ベネデット/Anthony Dominick Benedetto、1926年8月3日にイタリア移民の両親のもとニューヨーク州クイーンズで生まれる。

18歳で徴兵されて第二次大戦下のドイツで従軍。終戦後に歌手となり1951年の「ビコーズ・オブ・ユー」に始まり、「ストレンジャー・イン・パラダイス」「思い出のサンフランシスコ」などが大ヒットを記録し、以後60年以上、90歳を過ぎても現役歌手としてステージをこなした。

私にとっては、30年以上前から大の贔屓にしている「キング・オブ・ジャズ・シンガー」だ。

訃報に接して気持ちは多少溟くはなるが、ショックはない。御歳96歳である。もう数年前からいつ訃報が届いてもおかしくないと覚悟をしていたから。そして寂しくも無い、数多くの素晴らしい歌と映像が残っているから。

トニー・ベネットの生のステージは三度観た。初めて観たのは初来日となった1988年〈東京ブルー・ノート〉のこけら落としのステージである。オープン当時の〈東京ブルー・ノート〉は、青山通り紀伊国屋側から骨董通りに入って5分ほど歩いたビルの地下にあった。今の店のように大箱ではなくニューヨークの本店を模したいかにもジャズバーといった作りであった。

鳴り物入りでオープンする〈東京ブルー・ノート〉、それもトニー・ベネットのステージである。当然、席の取り合いとなったが、私はその当時のコネを総動員して、どうにか3日目の遅い回の席を2席確保することができた。35年前のそのステージについては、ほとんど覚えていない。あのトニー・ベネットが目の前に、それも息遣いが聴こえてきそうな距離である。興奮が頂点に達していてワインをガバガバ呑んだのだけは覚えている。そして、大変失礼な話であるが、その夜、同行していただいた女性を全く覚えていないのである。多分、トニー・ベネットに興奮しすぎていて何もイタしていない気がする_そう多分。

その後、『東京JAZZ2013』のステージで二度目を観るまでには25年を要した。そして三度目は『東京JAZZ2013』と同年のクアラルンプールでのステージである。

クアラルンプールのステージではマイクなしで「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を朗々と歌い、会場の隅々にまでその歌声が響いた。この時トニー・ベネット御大86歳である。これには痺れた。

クアラルンプールのステージからちょうど10年、トニー・ベネットは逝った。

トニー・ベネットの歌手生活で特筆すべきは、若い頃のオペラ唱法を使った伸びのある歌声だけでなく、晩年期に入ってから制作されたデュエットアルバムのシリーズにある。トニー・ベネットは2001年75歳で『ウィズ・マイ・フレンズ』・2006年80歳『デュエッツ/アメリカン・クラシック』・2011年85歳『デュエッツⅡ』と5年ごとに若手から大御所と呼ばれるベテラン歌手達とのデュエット・アルバムを発表した(途中、ラテン歌手達とのデュエット・アルバムもリリースしている)。アルバムに参加したのは、ポール・マッカートニー、ビリー・ジョエル、アレサ・フランクリン、スティビー・ワンダー、ウエスタンの大御所ウイリー・ネルソン、はてはオペラのアンドレア・ボッチェリまで多岐にわたる錚々たる面々である。

特に夭折したエイミー・ワインハウスなどの若手ミュージシャンにとっては、トニー・ベネットとの共演は貴重な経験となったようで、ダイアナ・クラールKD ラングレディー・ガガなどは、独自でトニー・ベネットとのデュエット・アルバムを制作している。中でも2021年発表のレディー・ガガとの2枚目のデュエット・アルバム『Love for Sale』は、トニー・ベネット95歳60日で史上最高齢のアルバムリリースとしてギネスに登録された。

老年を迎えた歌手が、現役バリバリの孫・子に近い年齢の歌手とのデュエット・アルバムを制作したのを他に聞いたことがない。しかも年々老いていく一方の高齢者が15年にもわたって5年毎にリリースし続け、そのアルバムはビルボードの上位につけたのである。

私がトニー・ベネットを敬愛するのは、単に人を魅了する歌だけではなく、経験と知識の豊富な隠居として、若い世代にそれを伝えて、また、その伝えた瞬間を共同作品として遺したことにある。歌手として積んできた己の経験値を惜しげも無く次世代に伝える。そして、その場を質の高いエンターテイメント、ショービジネスに仕上げた。

これぞ隠居の鑑である。

晩節を汚すことなく綺麗にこの世を去る—まさに理想である。

また憧れとする人がこの世から消えた。

トニー・ベネットについては、2018年秋分のコラム『トニー・ベネット前編』『トニー・ベネット後編』を、併せてお読みいただければ幸いである。

編緝子_秋山徹