1. HOME
  2. 24節気に想ふ
  3. 令和七年 立冬

令和七年 立冬

2025年11月7日 ~ 2025年11月21日

職業は?

ミャンマーへ

明治節

立冬_暦は立春の前日までは冬となった。例年では、まだ冬遠からじと書くところだが、本年は本当に冬が来たと思えるほど冷える。

冬隣りから秋の暮れ、行く秋と秋が深まる中、なんとなくメランコリックな面持ちでいるところに、穏やかな秋晴れの日、小春日和・インディアンサマーが不意に現れてぬくぬくと暖かいなんていう季節の移ろいという情緒がない本年であるのが、ちと寂しい。

先週の十一月三日は「文化の日」であった。もともとは明治天皇の誕生日「明治節」であり、四大節のひとつであった。四大節とは、正月一日の「四方節」、二月十一日現在の建国記念日である「紀元節」、在位中の天皇の誕生日である「天長節」とこの「明治節」である。

天皇陛下がお代わりになれば、当然、天皇誕生日である天長節はその都度変更となる。明治天皇が十一月三日、大正天皇八月三十一日、昭和天皇四月二十九日、平成天皇十二月二十三日、今上令和天皇二月二十三日であるが、明治天皇の明治節が「文化の日」、昭和天皇の日が「みどりの日」から「昭和の日」になって残ったが、大正天皇と昭和天皇の誕生日は祝日から平日となった。

幕末から明治維新の日本激動の時代、明治天皇の果たした役割と存在、功績は大きいということから、明治天皇の崩御以降、天長節とは別に明治節という祝日が定められていた。それが、戦後1948年に〈日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していること〉から「文化の日」となったという。日本国憲法の施行を記念した「憲法記念日」が五月に別にあることからすれば、明治節を廃止したいGHQがらみのこじつけであろう。素直に明治天皇を称えれば良いのに、ダブルスタンダードこの上なく気持ち悪いったらない。

後日談

前回「霜降」コラムの〈まんげ〉ならぬ「マ・ンゲ」一行の後日談である。

藤川チンナワンソ清弘和尚とマ・ンゲさんが無事、タイとミャンマーにそれぞれ帰国して一年ほどが過ぎた頃、いつもの如く突如として藤川和尚から連絡があった。
「ミャンマーの日本語学校の子供らに、教科書やらノートやらの文房具を持っていくんやけど、来おへんか」
「それは是非行きます」
「ほおか、ミャンマーまでの飛行機とホテルはこっちのやつに手配させるんで、バンコクまで来てんか。ミャンマーのビザも取ってな」
すぐ後に、やはり和尚から誘いを受けて同行することになったF君から連絡が来て、彼によると、日本から五人、バンコクから二人と藤川和尚を入れて八人のメンバーになるということだった。

このF君というのは、映像関係のディレクターが職業であるが、〈おもろい坊主を囲む会〉という藤川和尚を支援する会を主催している。私に藤川和尚を紹介してくれたのも彼である。

さて、ミャンマー行きの第一関門が渡航ビザの取得だった。
まずは、大崎と北品川のほぼ中間にあるミャンマー大使館にビザの申請に行かなければならない。
現在は立派な建物になっているようだが、当時はだだっ広い敷地に古い建物がポツンと建っていた。いかにも軍事政権国家の大使館然としていた。しかし、本当に敷地は広い。失礼ながら経済的に豊かとは思えない国の大使館所有とは思えぬ広さだった。場所も一等地で、何せ隣が当時も今も最高級マンションの〝御殿山ハウス〟である。

初めて降りる大崎駅からてくてく歩いて行った。建物を囲む恐ろしく高い塀の真ん中に、これまた巨大な門扉がある。呼び鈴を鳴らすと、これ以上の無愛想はなかろうという門番に、ビザの申告に来た旨と、予約の時間と名前を告げ、中に通された。殺風景な建物の簡素な作りの受付に、事前に送られてきた用紙に必要事項を記入したものを提出する。面接があるということで、しばし待たされた後、面接官に会う。結果は後日ということで、その日は退散した。一週間ほどして通知が届いた。ビザの発行はできないという。どうも、職業欄にジャーナリストと記入したのがまずかったらしい。軍事政権である。取材はまかりならぬということだ。

これには慌てた。

東京からバンコク経由ミャンマーの手配は済んでおり、出発までの日程にあまり余裕がなかった。タイの藤川和尚に相談すると「なんや、しゃーないな。あちこち連絡してみるわ」と一言。すると、ミャンマー大使館に融通の効く人を介して、どうにか再度ビザ申請ができることになった。この時は、このジジイを大いに見直した。

再び強面の門番に通されて、同じ面接官と向き合った。書類の職業欄はエディター(編集者)と書き換え。今回は友人のいる寺に遊びにいくだけで、ミャンマー国内での取材が目的ではないこと、「取材は一切致しません」と書いた誓約書のようなものを提出し、無事ビザが発行された。

教訓—職業を気取るとろくなことにならない。

ミャンマー出発の二日前にバンコク入りし、現地の友人とタニヤ(バンコクの歓楽街)で馬鹿騒ぎをして、当日ドムアムン空港の集合場所に着いた時には完全な二日酔いであった。
「なんや、酒臭いの。遊び過ぎちゃうか」と和尚。
各自割り当ての教科書と文房具をバッグに詰め、いざミャンマーへ。

最初の目的地は首都だったヤンゴンである。

ミャンマー行きの飛行機には藤川和尚が先頭で搭乗し一番前の席に案内される。タイでは何事につけ僧侶・比丘は常に最優先である。藤川和尚の隣には見知らぬ比丘が座っていた。法衣の色が濃い臙脂であったのでミャンマーの比丘のようであった。ヤンゴンには二時間弱で到着した。二日酔いの私は熟睡である。

飛行機のタラップを降りれば、空港の建物まで我々を運ぶくたびれたバスが停まっていた。良く見るとバスのボディには日本語で〇〇交通、フロント上部にはこれまたくるくる回る日本語の行き先表示が、内部には何々商店などの広告、つり革の先には降りるバス停の前で鳴らす赤いボタンがある。まわりが止めるもあえて押してみたら、ちゃんと〝ピンポン〟と鳴った。日本の地方都市の中古バスをそのまま使用しているようだった。しかし、日本の地方都市で働いて、お役御免となったのちにミャンマーの前首都空港まで運ばれ、再び現役でいるというこのバスの旅路を想像すると、日本車の逞しさと健気さを感じた。

空港施設に入ると、入国審査に並ぶ列の脇に自動小銃を携えた兵士が数名立っている。一気に軍事国家の玄関口に立っているのだという緊張感が襲う。ここで、ようやく私の二日酔いも醒めた。

先に〝首都だったヤンゴン〟と書いたが、実は、私たちが到着したこの日2006年3月27日に、〝新首都ネピドー〟で遷都を祝う軍事パレードが行なわれていた。ミャンマー軍事政権は前年の2005年に突如として首都移転を発表し、同年11月に移転作業を始め、どうにか移転が終わったばかりであった。まさに、ほやほやの〝首都だったヤンゴン〟である。

どうりで、このタイミングでは職業ジャーナリストと書いた私のビザが降りなかったわけである。

小雪へ続く

編緝子_秋山徹