火野正平
昭和歌謡_其の120
「昭和の役者馬鹿が、また1人……/火野正平を悼んで」」
なんだ坂、こんな坂
この原稿に取り掛からなきゃな、と思っていた、ちょうどそのタイミングに、役者の火野正平が急逝した、との報が飛び込んで来ました。
(あら、腰痛の悪化で静養していたはずが、……やけに早いな?)
反射的に私はそう感じました。
東京にいる介護中の母親(89歳)が、火野が晩年(こんな言い方、彼のキャラには似つかわしくなくて、哀しくなりますが^^;)のライフワークにしていた、BS・NHKの人気ドキュメンタリー番組、「にっぽん縦断 こころ旅」の大ファンで、いつも楽しく観て来たんですけれどね。
本放送開始が2011年4月、放送回数は軽く1000回超えだそうですが、火野が、老いによる肉体の衰えを日々感じつつも、なんだ坂、こんな坂、うんとこどっこいしょ……、スタッフ数名を引き連れて、サイクリングで全国各地を回るのです。
「ちくしょー、早く終わんねぇかなぁ、この昇り坂」
なんてね、彼が思わず吐き出す声も、口元のマイクで拾って流しつつ、ひたすらペダルを漕ぐ……。途中、各地で立ち寄った飲食店で、たまたま出くわした一般人との短い語らいも、この番組の【売り】だったはずです。
ここ数年、時折発作のように猛烈に痛む腰との、「我慢比べだよなぁ」、「負けたらさ、俺はオダブツだな」と、本人も番組の中で愚痴るほどですから、お袋をふくめて視聴者は皆さん、火野が腰痛に苦しんでいる事実を、リアルにご存知だったでしょう。
(それにしても早いなぁ、オダブツになるのが^^;)
(ひょっとして、腰の痛みも癌によるものだったりして?)
長年の自転車漕ぎによる腰の筋骨の過労〝だけ〟で、命を失うものかしら? という疑問が、私の頭の中にずーっと浮かんだままです。
私の彼のイメージ、……というより、昭和を生きた世代ならおそらく誰しもそうでしょうけれど、まぁー、火野正平といやぁ、とにかくオンナ好きの助平野郎! ですよね(笑)。「元祖プレイボーイ」なんて、表現としちゃ、お上品な方で……。
はるか昔、ある若手美人女優が、ドラマだか映画の撮影だかで火野正平と一緒になった際、芸能記者のインタビューに真顔で答えて、
「事務所の方や親しい俳優さんたちからも、『とにかく火野さんには近づくな。手を触られただけで妊娠しちゃうから』とキツく忠告されてます」
いやはや、昭和は遠くになりにけり。今時のコンプライアンス感覚に照らしゃあ、【これ】だけで大事件になりましょうが、
当時は誰も、こんな程度じゃあ一切騒ぎません。ただ爆笑のみ。
言われた火野も、まったくもって動じない。例のシブ~い声で、
「バカヤロ、俺は種付け馬かよ」
と苦笑するだけ。彼のその、気恥ずかしげな風貌が、また、実に色気があると言いましょうか。
(嗚呼、このヒトは、絶対にモテるよなぁ、オンナに)
と、まだガキもガキ、もちろん童貞の頃のワタクシは、テレビ画面に映し出される火野正平が、実に実に羨ましく感じましてねぇ。
意外と知られていないですが、東京は目黒で生まれ育った彼は、児童劇団に所属していた関係で、中学1年の頃からドラマ出演していたんですね。芸歴は62年。
芸能ゴシップ、恋愛スキャンダル的な話題ばかりが着目されましたけれど、どっこい役者としても、【超】まで付けると異論もありましょうが、キラリと光る一級品の演技、それも彼にしか出せない滑稽さ、哀感、凄みを演じて見せてくれる、他に替えの利かない、まさに芸能界に「火野正平ただ1人!」という存在だったはずです。
随分前にショーケンこと萩原健一が亡くなった時、挙(こぞ)ってメディアは「稀代の個性派俳優の死」という表現を並べていましたが。
ショーケンは、歌手上がりの(舞台を踏んだことのない)映像俳優ですけれど、火野正平は骨の髄まで泥臭い昔気質の役者だった気がします。
そのココロは如何? プライベイトの場でも、常に火野正平を演じ続けて生きる! 【そう】するように、あえて自分を追い込んで行くタイプの役者、……ってことになりましょうかね。カツシンこと勝新太郎や、モリシゲこと森繁久彌などと同じDNAを感じます。役者馬鹿などと、一言でククってしまうと、はなはだ野暮ですがね。
他にも名前を挙げりゃ、男優も女優も、昭和時代に活躍した大スター級の役者衆には、この手の御仁が多かった。
間違ったって、TVのバラエティ番組で、われわれ庶民と同じ感覚、目線で、やれ「コンビニ弁当だったらファミマよりセブンがグー!」だの、「ユニクロのバーゲンで〇〇を買った」だの、……そういう〝みみっちぃー〟話なんざ、一切しない! 何故なら夢がないから。役者は一般大衆に「夢を売ってナンボ」の商売だと、100%自覚しているから。
平成時代以降、雨後の筍のごとくウジャウジャ現れては、我が物顔をして各種メディア空間に居座り続けている、よしもとの売れっ子芸人どもや、十把一絡げのバーゲン売りアイドル女子軍団とは、同じ芸能人であっても明らかに「血筋が違う!」んですね。
そんな1人がまた、昭和の大スター連中の跡を追って、彼岸へ旅立ちました。享年75歳だそうで、「まだアンタは早いでしょうが!」の愚痴も飛び出す、なんとも悔しい鬼籍入りです。
生きてりゃいいさ
私の記憶で、火野正平の演技に最初に魅せられたのは、小学校5年生の時分、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」で木下藤吉郎(通称サル)を演じた彼に、画面越しに対した時でした。
この役は、昭和平成令和を通じて、あらゆる有名スターが演じていましょうが、いまだにサルといやぁ、「国盗り物語」の火野正平を連想してしまうのは、彼ほどドンピシャリ! が、他にいない証拠でしょうね。
このたびネット情報で改めて知ったのですが、彼がこの役を射止めたのは、同じ事務所に所属していた近藤正臣のおかげ、だそうで。明智光秀役は近藤、という話は、番組の企画がGOになった段階で決まっていた。
その時に番組のプロデューサーが、たまたま近藤のマネージャーだか事務所の社長に、「まだサル(木下藤吉郎)役が決まらない。できれば新人で、野性味がある若手を探している」などと口走ったところ、「そんならウチに、サル1匹おりまっせ!」……てな展開に。
この時、火野は24歳。子役上がりの役者といえども、まだ無名もいいところの彼は、まさに「国盗り物語」のサルの演技がすこぶる高評価だったことによって、役者として大ブレイク! 全国のお茶の間の老若男女に、特に若い女性たちに、火野正平の顔と名前が知れ渡ることになったのです。
さて、そろそろ1曲ぐらい歌を紹介しないといけませんね。
実は火野正平は、歌手としても、かなり早い時期から何枚もシングルやアルバムを出していましてね。不定期にライブ活動もしていたようですね。
以下の音源は、制作の年月日など不明なのですが、河島英五が昭和55年=1980年5月25日にシングル発売した、『生きてりゃいいさ』(作詞&作曲:河島英五)のカバーです。
ギター1本の演奏で、火野正平のしゃがれた声が、なんとも切なく響きましてね。
♪~きみが悲しみに 心を閉ざしたとき
思い出してほしい歌がある
人を信じれず 眠れない夜にも
きっと忘れないでほしい
生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも 立ちどまりはしない
めぐり めぐって行くのさ
手の掌を合わせようほら温りが
君の胸に届くだろう
一文なしで町をうろついた
野良犬と呼ばれた若い日にも
心の中は夢で埋まってた
火傷するくらい 熱い想いと
生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも 立ちどまりはしない
めぐり めぐって行くのさ
恋を無くした 一人ぼっちのきみを
そっと見つめる 人がいるよ
きみにありがとうとてもありがとう
もう会えないあの人にありがとう
まだ見ぬ人にありがとう
今日まで僕を 支えた情熱にありがとう
生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ 生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも 立ちどまりはしない
めぐり めぐって行くのさ
手の掌を合わせようほら温りが
君の胸に届くだろう~♪
世の中を斜(はす)に構え、世間の常識やら、しがらみやら、……なんざ、とっくにオサラバし、欲望の赴くままに生きて来て、「俺ぁ、いつ死んだって構うこたぁねぇんだぜ。クククク……」と、嘘でも鼻で笑い飛ばすような野郎じゃね? と……そう、勝手に私が想像、妄想していただけのことですが、
その彼が、なんともかとも、あまりにあっけなくこの世からオサラバした、……その直後に、しみじみと ♪~生きてりゃいいさ~♪ なんて歌われちまうとさ、
嗚呼そうか、そうだよな。やっぱ、もっとアンタさ、生きたかったよなぁ~。まだまだ自転車に跨ってさ、うんとこどっこいしょ、なんだ坂、こんな坂……サイクリングしたかったよなぁ~。
そう火野正平に語りかけたくなります。
そして、そんな私が、コラムの最後につぶやく言葉は、
人間、健康が一番幸せ。
……合掌。
勝沼紳一 Shinichi Katsunuma
古典落語と昭和歌謡を愛し、月イチで『昭和歌謡を愛する会』を主催する文筆家。官能作家【花園乱】として著書多数。現在、某学習塾で文章指導の講師。