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平成八年 穀雨

2026年4月20日 ~ 2026年5月4日

四人の妻

大家族制度

色男の頻尿

穀雨_国土の穀物に滋養を与える雨が降る頃。

先の時候〝清明〟の前後には春雨が続いたが最近は落ち着き、そのあと春風が花を散らしてすっかり葉桜となった。いま、桜前線は北海道あたりまで北上したという。

すっかり春めいて昼間はポカポカと温かいが、朝夕はまだまだ冷える。爺さんは油断して体を冷やすと、途端、夜間頻繁にトイレに通うことになる。

先日、SNSにブラッド・ピットのインタビューの一部が流れていた。
すっかり頭のハゲ上がったインタビュアー
「あなたは、私と大して歳が変わらないのに、なぜそんなに髪がふさふさで若々しいんでしょう」
ブラッド・ピット応えて
「あんた、俺が夜中に何度トイレに行くか知らないだろ」

これを観て、なんだか嬉しくなった。1963年生まれのブラピは、私の6歳下の63歳、ほぼ同世代である。容姿が大きく異なるのはもちろん当たり前であるが、彼ほどの資産があり、ツテも多かろう色男が、加齢による前立腺の不具合には成す術がないという事実に、親近感を覚えた爺様は私だけではあるまい。
ご同胞ブラピ!
いいぞブラピ!(何がいいんだか)

頑固爺い

閑話休題

明日四月二十一日は我が父親の祥月命日である。今から21年前の2005(平成十七)年に七十五歳で亡くなった。昨今の没年齢としては早い方であろう。早いもので来年は二十三回忌である。

父親を偲ぶ意味合いで、手元にある父親関連の資料である祖父母の戸籍謄本と祖母の兄・大叔父作の小冊子の写しを久しぶりに手に取って見直した。祖父母の戸籍謄本は父親の遺産相続時に必要となったもので、大叔父作の小冊子の写しは、以前実家で見つけたものである。

全部証明の戸籍謄本は平成十八年に発行されたものだが、明治二十八年日清戦争生まれの祖父と、明治三十八年日露戦争生れの祖母の出生からの記載であるから、旧戸籍法の様式である。

旧戸籍法の様式とは、戸主と家族で構成される家制度に則ったもので、戸主が筆頭、その後に一族が記載されている。1947(昭和二十二)年に発布された新戸籍法による戸籍謄本には、「夫婦と未婚の子」が記載されるのに対し、旧戸籍では「三代以上の親族が同一の戸籍に」記載されるのも珍しくない。

旧民法の規定で戸主とは、一家の統率者として戸主権を有し、家族を統轄し扶養の義務を負う、とある。基本的に戸主の同意のない婚姻・縁組は認められず、強行した場合は自動的に離籍となったという。

分家の祖父の戸籍は比較的簡素なものだったが、本家筋の祖母の戸籍には多くの人の名が記載されていた。その数なんと二十七名である。

内訳は、戸主である曾祖父とその両親・高祖父母(曽祖父に戸主を継承し、隠居となると子である曽祖父の家族として戸主の後に記載される)、兄弟が三名と姪が一名、妻が四名(これは後ほど)、子が五男三女の八名(昔の人は子沢山である)、長男の嫁一名とその子である孫が四男三女の七名(やはり子沢山)の総勢二十七名である。

ここで、大叔父の小冊子が活躍するのである。長らく中学校の校長の職にあった大叔父は職を辞したあと、隠居の身となってから一族祖先のことを調べ上げ、小冊子にまとめた。

以前もここに記したが、我が祖先は、源平合戦の最中、壇ノ浦の戦いの翌年の1185(元暦三)年に源頼朝の紹介文を持って西下し、福岡は草野家11代永経に仕え、のちに家老となった。代々草野家に家老として使えた中で、1584(天正十二)年、豊臣秀吉により当時使えていた草野家20代鎮永が暗殺されるによって、野に下り、やがて久留米八重亀という地の庄屋となった。という縁起は大叔父の小冊子で知ったのである。

大叔父の小冊子には代々の行状などが記してあり、ほとんどが立派な庄屋であった旨であるが、13代の九兵衛重幅さんのときに〈家運傾キ没落ス〉とあり、ほとんどの田畠を失ったらしい。何があったか具体的には記されていないが、そこまで資産を失うのは博打あたりではなかろうかと思われる。一族の中でも出来の悪い私は、なんだか九兵衛さんにシンパシーを感じてしまうのである。祖母の戸籍にある戸主の曽祖父は、この久兵衛さんの二代後の15代にあたり、そこには〈一族再興の人〉とある。

1864(元治元)年、池田屋事件のあった年に生まれた曽祖父は、私塾に通ったあと独学で法律と経済を学び、やがて17歳で村役場と銀行の両方に勤めることになる。29歳の時に村長となり約三十年間務めると同時に、銀行や複数の企業の役員を務め、失った田畠の大部分を取り戻した。と、曽孫とは似ても似つかぬ、とても立派な人である。

そこで、なぜ妻が四人記載されているか、これも大叔父の小冊子に記述がある。まず、八人の子どものうち七人は17歳で嫁いできた最初の妻の子である。しかし、最初の妻は七番目の子を生んだ直後チフスに罹り39歳の若さで急逝してしまう。七人の子供の世話などのため、後添い・二番目の妻(31歳)を娶るが、この人が精神的に不安定なところがあったため二年で離縁した。やがて三番目の妻(42歳)をもらう。この人とは八人目の子・五男をもうけるが、10年ほどして脳卒中で亡くなってしまう。曽祖父62歳の時、四番目の妻(46歳)を迎え、この人とは人生の最後まで過ごした。これが妻が四人記載されている理由である。村長という役職や大家族を切り盛りする上で常に家族の中心になる妻、こういう家を取り仕切る女性を福岡では〝御寮んさん(ごりょんさん)〟というが、この存在が必要であったのだろう。少しも色気のある話がないのがつまらないが、あっても冊子には書けななかっただろう。

かように旧民法の家制度での戸主とは、一族郎党の多くの人の統率者であり、家族・親族の人生を左右する戸主権というものを有していたが、同時に扶養の義務も負っていた。一族が大きくなればなるほど、戸主の力は多大で、我々は、この戸主に頑固爺いをイメージする。実際、曽祖父も相当なものであったらしく、本人同士が嫌がっている縁組を子に対して二つも強行したらしい。令和のフェミニストが発狂しそうな制度である。

しかし、強行した縁組が結果的に離縁となった場合には、再度戸籍に迎え入れ扶養し、再婚させている。三女のこの人は最初の無理な縁組で結婚でケチがついたのか、都合三度結婚し、三度目の離縁の後復籍してからは独身で過ごし、最終的には兄弟の子・甥を養子に迎え、これを立派に育て上げている。

家制度の中では養子縁組も盛んで、三男一女の末っ子の三男である曽祖父が戸主となったのは、上の兄二人が、ひとりは近隣の庄屋へ、他のひとりは分家へと養子に出たためである。曽祖父も次男と三男は他家に養子に出している。養子に迎えた他家に子供がいないかというと、ほとんどが家督を継ぐ子など複数の子供がいる。庄屋同士、庄屋と大きな商家が養子を互いに縁組するのは、血を薄めると同時に、地方社会を円滑に発展させるための〝昔の人の智恵〟であったのだろう。

旧家制度は、夫婦共働きでなければ暮らしが成り立たない現代では無理な話である。一人の戸主が多くの家族を養い強い力を持った一見理不尽な時代と、女性の社会進出・男女平等参画という一見理想的なお題目で疲弊したように見える現代社会、どちらがしあわせなのであろうか。

編緝子_秋山徹