令和七年 小雪
生まれ変わり?

輪廻転生
面目
小雪_雪がちらつくほどに、冬の気配に染まる頃。
我が家のベランダから見える富士山が冠雪している。冴え冴えとした空気の向こうに見る冬の姿は、まさに面目躍如といった感がある。やはり頭に雪をいただいた富士の美しさは格別である。
面目は、仏教では〈めんもく〉と読み。本来あるべき姿、肝腎要の本性という意をあらわす。
「本来の面目」という題目で道元禅師の次の歌がある。
春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて 冷しかりけり
本来あるべきもののある尊さ、無いものが無いという本来。
最近日本には色々な意味で、本来無いはずのものが〝ある〟ようになり、先人に面目ないと心は憂鬱になる。
さて、立冬に引き続き、ブッダのサンドウィッチマン藤川和尚とのミャンマー旅行記後半である。前回はバンコクから〝ミャンマーの首都であったヤンゴン〟に到着したところまでであった。
ひまわりと戦闘機
空港を出て街中で昼食をとり、ホテルにチェックインし一休みしたところで、ミャンマー最大の巡礼の地〝シュエダゴン・パゴダ〟を参拝した。暑さが和らぐ夕刻近くの出発としたのに、暑い。日本と格段に違う〝湿気の暑さ〟である。呼吸は鼻や口で蒸気を吸っているように辛い。先の大戦で、この蒸気を吸いながらインドとの国境近くを重装備で行軍した〝インパール作戦〟に放り込まれた日本の兵隊さんを思うと気の毒である。
ヤンゴンの中心にあるシュエダゴン・パゴダは、高さが100メートルもある仏塔で、その周りを60あまりの仏塔や廟が囲む。これらは、寄進されたダイヤモンドなどの宝石で飾られていて、夜にはヤンゴンの街の真ん中で輝く。
厳かな場所ではあるが、パゴダのまわりに結婚式と思しき集団がいたりして賑やかである。特に目を引いたのが、これから一時出家をする少女たちの集団である。小学生と思(おぼ)しき少女たちは剃髪されたばかりの頭にピンクの法衣に茶の袈裟のようなものを肩から掛けた形(なり)であった。

同じ上座仏教国のタイで一時出家をするのは成人前後の男性のみであるため、この小女たちの集団にはヤンゴンで初めて出会(でくわ)した。軍事政権と敬虔な仏教徒の共生というのには不思議な感覚を持った。
夕飯に出かけた店のテレビには、新首都ネピドーでの軍事パレードの模様が流れていた。店にいた人々は客も店員も無表情でそれを観ていた。下手に否定的な意見や〝アウン・サン・スー・チー〟の名前でも口に出そうものなら、当局に通報されて、次の日街から姿を消す羽目になるかもしれないからだ。固く口を噤(つぐ)んで日々をやり過ごすしかない国に、今我が身があるという経験は貴重だった。ミャンマーの人々はお釈迦様の前で手を合わせ何を祈るのか。
翌日の朝早く、ヤンゴンからマンダレーへ飛行機で移動した。新しいマンダレーの空港は超近代的でキラキラと光っていた。が、空港内はガランとしており、通常あるレストランや売店は、それらしきスペースはあるが店舗が入っていない場所が目立つ。旅客もヤンゴンからの便で着いた私たちの便の搭乗者だけであった。広い、広すぎる。チャーターしたワゴンに乗って空港を出ると、あたりは一面ひまわり畑である。空港に繋がる道が一本、ひまわり畑を割るように真っ直ぐ何キロも続いている。おまけに道路の幅が20車線ほどの広さである。そこに車がポツリポツリと走る。後で聞いて納得したのは、有事の際はこの道が戦闘機の滑走路となるということだった。絵面を想像するに、ひまわりと戦闘機はいかにもミスマッチに思えた。空港と道は中国の援助金で作ったそうだ。
やがて景色は郊外の牧歌的な風景に変わり、ワゴンは街路樹に囲まれた道などを一路メッティラーへと進む。約三時間ほどでメッティラーの街へと我らのワゴンは入った。この街は昔からヤンゴンとマンダレーを結ぶ主幹道路の要所として栄え、小さいながらも、ホテルやレストランなどの必要なものは一通り備わっていた。街の中心にはメッティラー湖があり、湖畔から望む夕陽が美しいことで有名だ。この湖畔から一本入った通りに我々の目的地「ゼゴン僧院」はあった。僧院の門を潜るとお堂の前で出迎える人の中に、懐かしい『マ・ンゲ』さんの顔が見えた。
お堂の右手には藤川和尚が日本で寄付を募って建てた英語と日本語学校の教室がある。もともとこの僧院のダンマタラという比丘が独学で覚えた(独学というのが凄いが)英語と日本語を教えていたが、その教室の建物が藤川和尚曰く牛小屋のように粗末なものだったという。この劣悪な環境をどうにかしたいと、藤川和尚は日本で寄付集めに遁走し、コンクリート造の教室を建てたのであった。
『マ・ンゲ』さんはこの日本語学校の優秀な卒業生で、日本語検定二級の資格を持っているという。この資格があれば日本の大学への留学も可能で、また、ヤンゴンの日本企業の秘書に就職できるほどの資格であるそうだ。道理で日本に来た時、会話に困らなかったはずである。彼女は、藤川和尚よりも、私よりも、はるかに美しい日本語を話すのである。
そんな優秀な『マ・ンゲ』さんが、なぜ留学もせずヤンゴンにも行かずメッティラーを離れないのか、それは実家の商売を引き継ぎ成功させている女性経営者だからだった。僧院の裏にはメッティラーの中央市場があり、その中に『マ・ンゲ』さんの経営する問屋兼店舗があった。扱う商品はミャンマー人が好む茶葉の漬物〈ラベット〉。これを卸業として手広く扱っているという。持って行けと一抱えほどある袋を渡されたが、野沢菜漬けの酸味をやや弱くしたその漬物を、帰国後友人たちに分けたが好評であった。『マ・ンゲ』さんの日本語習得は単に純粋な趣味であったのである。
このメッティラーには悲しい歴史がある。第二次世界大戦時、ここメッティラーでは日本軍とイギリス・インド連合軍の戦闘が繰り広げられ、巻き添えとなったミャンマー(当時はビルマ)人を合わせると10万人に上る人が亡くなった。メッティラーの人は傷ついた兵士を、日本兵・イギリス兵・インド兵の区別なく手当てしたという。戦後、日本の遺族会がここに『日本ミャンマー世界平和ナガヨシ(=竜神)パゴダ』を建てた。
藤川和尚曰く「ここに日本語を習いに来ているこの子らは、日本の兵隊さんの生まれ変わりやないやろうか。そうやないと、なんであの子らは、ミャンマーでは大した役にも立たん日本語を習うんか。あの目え見てみい。キラキラした目で真っ直ぐ見られると、わしゃあ言葉に詰まる」比丘のくせに仏教の基本理念である〝輪廻転生〟に疑いを持つ藤川和尚にさえ、生まれ変わりを信じさせる子供たちであった。
三泊四日の短い滞在の中、教科書と文房具を運ぶ役目を終えた後は、市場の喫茶のプラスティックの椅子に座り、コンデンスミルクの中にコーヒーが入っているのか、コーヒーの中にコンデンスミルクが入っているのか分からぬほど甘ーいコーヒーをまったり啜りながら市場を行き来する人を眺めた。夜には湖畔の飯屋の野外に置かれたテーブルでメコンウイスキーを呑みながら鍋を突いていると、いきなり辺り一帯の電気が消えて真っ暗闇になった。店で飲食中であっても毎晩夜の九時には電気が止まるらしく、まわりの客は何事もなかったように食事を続けている。真っ暗闇の中で今自分が何を食べているのか把握せずに物を食うという、文字通りの〝闇鍋〟を体験したりした。
僧院のお堂でボーッとしていると藤川和尚が「授業でもやってみるか」と聞くので反射的に「少しなら」と答えたのが拙(まず)かった。そんな機会もあろうかと、マンダレーからの道中、子供たちにどんな日本語を伝えたら良いか密かに考えてはいたのだが—。「ほな行こか」と言う和尚の後について授業中の教室へ、和尚の合図で教師に教壇に誘われてから黒板を見て青ざめた。「英語の授業」だ。しどろもどろでどうにか簡単な会話らしきものをして、ご勘弁いただいた。この間、クソ爺いは教室の後ろでニタニタ私を見ていた。「-殺したろか」
メッティラー滞在中、『マ・ンゲ』さんにはひとつ気の毒なことをした。二日目に和尚から「『マ・ンゲ』さんが、日本のお礼としてアンタをバガンの気球観光に招待したいというとるが、どうする。明日朝早ように出て、夜遅くに帰ってくることになるが」と言われた。2019年には世界遺産に登録されることになる「バガンの遺跡群」には3000以上ものパゴダ・仏塔があって、これを気球に乗って上空から見るという体験ができる。気球によっては上空でシャンパン片手にというのも可能であるという。もちろん高額の費用がかかる。これに私を招待したいというのである。しかし、一行の中でひとり私だけ贅沢をというのも気が引けたので、丁重にお断りをした。『マ・ンゲ』さんは心底がっかりした様子であった。
お世話になったゼゴン僧院を後にしてから二十年近くが経った。藤川和尚もこの世にいない。私たちが訪れてから数年後に日本語学校は当局により封鎖されてしまった。
あの子たちはどこに行ってしまったのか。
編緝子_秋山徹












































































































































