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令和七年 処暑

2025年8月23日 ~ 2025年9月6日

面目ない

懐にウサギを抱く

懐兎(えと)

処暑_時折暑さがその盛りを潜め、朝夕のほのかな冷気に、やがてくる秋の気配を微かに感じる頃

つい最近まで「処暑」とは暦が秋になっても暑さが横たわっている頃、と思っていたら(なんなら以前のコラムでそう書いてしまっていた)、豈はからんや、暑さが止む頃という意味と知った。
処は「処所=おちつくところ」のように〝留まる、やどる〟という意味のみと思い込んでいたせいであるが、〝おさめる・やめる〟という意味もあると『字通』で調べて知った。浅知恵の思い込みほど恥ずかしいものはないと、反省した。

旧暦の八月十五日は「中秋の名月」十五夜である。(新暦令和七年では十月六日)
中秋とは旧暦で八月十五日のみを指すが、仲秋と書くと八月の一ヶ月全体を意味することになる。したがって時々見かける「仲秋の名月」は八月の月という意味となり十五夜ではない。

月の旧い異名に「懐兎(えと)=懐(ふところ)にウサギを抱くもの」がある。これは釈迦の前世物語を中心とするパーリ語の経典『ジャータカ※(本生譚)』の中の逸話による。

むかし、森でウサギとカワウソと、山犬と猿が仲良く暮らしていた。ある日、森に修行僧が托鉢に来て彼らに布施を求めた。カワウソは赤魚を、山犬は肉と大トカゲと牛乳、猿はマンゴーの実をそれぞれ布施した。
布施するものが何も無いウサギは修行僧に
「薪を集めて火をつけてください。その中に飛び込みますので、私が焼けたら食べて、修行に励んでください」
と健気に言ったが、修行僧はウサギを食べることはしなかった。実はその修行僧は姿を変えた帝釈天で、ウサギの天晴な心に感心し、世の中にこれを知らしめようと、山を潰して出た汁で月の表面にウサギの姿を描いたというものである。以来、我々は今夜も月面にウサギの姿を見る。
この物語は、『旧約聖書』にある試されて自分の息子の命を神に捧げようとした「イサクの犠牲」の逸話を想起させる。時に神は理不尽に下々を試す。

※『ジャータカ』_釈迦が前世で菩薩であったとき、いかなる善行と功徳を積んだ結果この世で悟りを開くことができたかを示す物語。説話文学として『イソップ物語』に影響を与えたといわれる。

お陰様

このように我々の生活の中には、仏教由来の言葉が数多くある。
たとえば良く使うものに「お陰様」がある。「お陰様で無事〇〇できました」などと言う。「お陰」はもともと神仏の助けや加護のことで、それが人から受ける恩恵や力添えを表すようになった。

「お陰」の思考はやはりパーリ語の経典『六法礼拝経(シンガーラカへの説法)』にある。王舎城に住むシンガーラカは、亡父の遺言を守り毎朝、東西南北と上下に祈りを捧げていたが、その意味を十分に理解していなかった。そこで釈迦は彼に「東を拝むときは父母に感謝し、南は導いてくれた師に感謝、西は妻や子に、北は友人に、上は沙門(出家者・修行僧)に、下は目下に感謝することが六方を礼拝する意味である」と説いた。仏教では、すべてのものは相互に関係し、多くのものの力、恵みという〝お陰〟を受けて生きているとされる。

八月十五日は終戦記念日。本年は80周年である。現代の日本人の生活は、靖国神社に祀られる英霊の犠牲の〝お陰〟で成り立っている。靖国は明治維新以降の戦に散った者たちの魂の依代である。靖国は概念と言っても良い。したがって九段下の社(やしろ)に足を運ばずとも、心の中で靖国・英霊を思い手を合わせれば良いのである。中国や韓国が喚き騒ごうが、朝日新聞が書き立てようが、まったく気にする必要はない。もし、東京裁判という全くフェアーではない裁判で裁かれたA級戦犯が気に食わなければ、心中で除外して拝めば良いだけの話だ。日本人各人の心の中の概念にまで他国から干渉され非難される覚えはないのだから。

靖国神社
〈祭神〉幕末以来大東亜戦争までの国事殉難(国家や公共のために一身を犠牲にすること)の英霊二百四十六万余柱
〈由緒〉明治元年に「戊辰の役」の戦没者を祀る招魂社の創立の気運が高まる。明治二年六月十二日に東京九段下に明治維新達成に殉じた三五八八柱の御霊が祀られた東京招魂社が立てられた。これが明治十二年六月に靖国神社と改称される。(他の地方の招魂社は護国神社と改称)この間、維新の志士、神風連・秋月・萩の各乱、西南の役の犠牲者を逐次合祀。以来、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦、ことに大東亜戦争に殉じた御霊を生前の身分、階級の区別なく合祀奉斎して二百六十万余に及ぶ。その中には女性祭神約六万柱も含まれる。現在は神社本庁には属さない単立の神社である。
(国学院大学日本文化研究所編『神道辞典』要約)

面目

「面目(めんぼく)」も日常でよく使われる仏教用語である。「面目躍如」「面目丸つぶれ」「真面目」などで、人に合わせる顔、世間に対する名誉といった意味となるが、仏教では「めんもく」と読み、人間にとって最も肝心な本性、あるべき姿を指す。禅宗では「本来の面目」といって、本来の自己、本来あるべき姿、人間の真実の姿、ありのままの姿を意味する。

道元禅師に「本来の面目」という題の次の歌がある。
—春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり
季節が移ろう日常の中に、日本の伝統的な美の精神と真髄というものがあると表している。

その日本人の美の精神が壊れてしまいつつあるのではないかと、心配になるニュースを先日目にした。

平成六(1994)年、静岡駅南口広場にフランス印象派の画家ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919年)と彫刻家のリシャール・ギノ(1890~1973年)の共作である彫刻作品が2体広場のシンボルとして設置された。ひとつは「勝利のヴィーナス」像、もうひとつは「洗濯する女」像で、これは、同じ型から鋳造されたものがそれぞれ世界に14体ずつあり、「オルセー美術館」(フランス)にも両方の像が所蔵されているという。しかし、最近この2体の裸婦像の移転計画が持ち上がっているという。

その理由がなんと「公共の場に裸婦像はそぐわない」というのだ。インタビューでしたり顔のオバハンが「広場に裸の女性の像があるのはちょっと抵抗あります」などとほざいていた。馬鹿も休み休み言え。
公共の場に置く像にはみな衣服を着せろというのか。フィレンツエのシニョリーア広場にあるダビデ像はどうする。巨大なペニスが広場に堂々と晒されているぞ。これを卑猥と感じる人間がいれば、それはそいつの頭の中が卑猥で下劣だということだ。

同様の問題が起こっているのは静岡だけではないという。いったい日本人の美意識はどこに行った。いつの間に民度がこんなに下がってしまったのか。

まったく、ルノアールに対して「面目が立たない」

編緝子_秋山徹