令和七年 大雪
乗り間違い

憧れのバスガール
次は「市ヶ谷」
大雪_気の早い木枯が吹きそうな時候となった。今年はなんとなく紅葉も早くやってきて、早めに散ったような気がする。
神宮外苑・絵画館前の銀杏並木が一斉に黄色に色づき、夜にはライトアップされている。二十年以上前、娘が幼い頃はよく散歩に連れ立って歩いた場所である。黄色い葉で敷き詰められた歩道は、幼子の格好の遊び場であった。ところが最近見た画像・動画では、この歩道が立錐の余地もない状態で人で埋まっていた。あまりの混雑ぶりに警官が出て交通整理をしている。ベストアングルを狙って車道でスマホ撮影する不届き者のせいで車の渋滞も引き起こっているという。
確かに趣のある絵画館を正面真ん中に、両側を色づいた銀杏並木が続いている絵というのは、夜のライトアップ時には特に煌びやかである。この映える絵をSNSに投稿せんとする若者と、某国をはじめとする観光客が殺到した結果が大混雑を生んだらしい。
しかし、情緒というものはどこに行った。皆が一斉に来ることはあるまいに。黄色い落ち葉の絨毯で遊ぶ娘をベンチに座ってのんびりと眺めるという、あまりにありきたりの、しかし有難い時間を過ごした日常の場所が、ある日突然テーマパークのような非日常の空間になるのは決して喜ばしい状態ではないだろう。日本の美しいものを愛でる作法といったものが壊されていくように感じるのは私だけか。
先の「小雪」の日、日比谷に行くため東横線の多摩川駅に着いた。この駅から日比谷に行くには、東横線の中目黒で日比谷線に乗り換えるか、東急目黒線・南北線直通の乗り換えなしで行くかである。どちらも乗車時間はさほど変わらない。タイミングよく目黒線が来たのでこれに乗った。座席に座り読みかけの『銀座百点』を読む。もうすぐ日比谷だなと顔を上げると、しかしそこには次は「市ヶ谷」の表示が。
ああ、やってしまった。
ややこしいことに東急目黒線は、東京メトロ南北線直通と、もうひとつ都営三田線に直通する線もあり、多摩川駅のホームもご丁寧に一緒である。両線の路線は「白金高輪」までは同じだが、この駅から南北線は「西高島」方面、三田線は「浦和美園」方面へとまったくルートが違ってしまう。私は日比谷まで乗り換えなしの「高島平」行きと思い込んで「浦和美園」行きに乗っていたため、白金高輪で乗り換えをせず「市ヶ谷」まで来てしまったのである。うなだれて白金高輪まで戻り、日比谷についた時は予定していた時間よりも大幅に遅れていた。
実は、乗り間違いと乗り換えのアナウンスにも気付かなかったのは、『銀座百点』巻末掲載の対談記事に集中していたからである。演出家の宮本亜門と俳優の加藤雅也の二人の対談である。三島由紀夫生誕百年を記念した舞台『サド侯爵夫人』(2026年一月から紀伊国屋サザンシアター他)の演出家と出演俳優としてのものだった。この中で興味深かったのは、三島由紀夫の戯曲で最高傑作と言われるこの『サド侯爵夫人』は、三島が渋沢龍彦の評伝『サド侯爵の生涯』から着想を得て書き上げたという点と、宮本亜門が登場人物女性六人役を全て男性俳優(成宮寛貴・加藤雅也・東出昌大・三浦涼介・首藤康之・大鶴佐助)で配役したことである。
マルキ・ド・サド侯爵が記した『美徳の不幸』『悪徳の栄え』の翻訳者でサドやエロスや幻想文学・神秘小説研究の仏文学者で小説家でもある渋沢龍彦は口さがない文学青年連中には〝限りなく一流に近い二流作家〟と呼ばれていた。他方三島由紀夫は超一流の文学者である。渋沢が三島の作品に影響を受けてというのではなく、三島が渋沢の作品にインスパイアされて戯曲を書いたというのは意外であった。またサド侯爵を巡る六人の女性による舞台を男性でのみで演じるという構成にも興味を持った。
宮本亜門曰く「『サド侯爵夫人』は男性が演じると台詞の力が強いんですよ。そして、まるで三島さんの分身がそれぞれの役柄の立場から語っているように感じられる。三島さんは戯曲を書くときには、よく全ての台詞を全部ひとりで喋ってみせていたと聞きました」が、男性俳優のみで配役した理由だそうだ。
三島由紀夫も渋沢龍彦も馴染んできた作家なので、久しぶりに観てみたい舞台だなと思って顔をあげたら、三島が割腹自殺を遂げた「市ヶ谷」というのは単なる偶然か。
こうした交通機関で乗り間違えをした場合に、必ず思い出す子供の頃の思い出がある。
ワンマンのバカ!
子供の頃、私は乗り物が苦手だった。車や汽車・電車、とりわけバスが嫌いだった。あの木の床から漂ってくる胸糞悪い匂いに吐き気がした。臭いの元は防腐剤のクレオソート油である。コールタールを高温蒸留して出来た油から作られる黒褐色の液体で、独特の強いにおいがある。古い列車の木の床にも使われていた。混雑したバスは本当に最悪で、人熱と油の匂いのなか立っている(当時は子供は女性や老人に席を譲り、立っているものだと躾けられていた)と頭がクラクラとして、とにかく早く降りて新鮮な空気を吸いたいとそればかり考えて耐えていた。
私が幼い頃は、まだバスには若い女性の車掌さんがいたが、車掌さんは良くこの臭いの中で長い間仕事ができるなと、不思議に思ったものである。バスでは、この若い女性の車掌さんの存在のみが、具合の悪い私の救いであった。子供とはいえ、男の子は若いお姐さんを見るだけで苦しみが和らぐものだ。
当時、女性の車掌さんは「バスガール」と呼ばれ、バスの中央入り口の脇が定位置で、肩からでかいガマ口のようなカバンを下げていた。1960年代初めまでは女の子のあこがれの職業であったらしい。車掌の仕事は乗客扱いと運転士の補助で、出庫前にはフロントガラスを拭き、運転席の清掃をした。営業運行中はバス停の案内を肉声で行い、次のバス停での降車の有無を確認し運転士に伝える。乗客には揺れる車内を回って乗車券を発売、バス停に着くと降車客から乗車券を回収、営業所に戻るとバスの車内を掃除し、売ったキップと売上金を合わせて精算をし、カバンを所定の場所に収めて乗務が終了となかなかの労働量である。
「バスガール」の主力は中学校を卒業して就職した女性であったので、若い女性が多かった。
やがて、日本は高度成長期となり女性の働く場が増えてきたこと、高学歴化が進み中卒女子自体が少なくなっていたことなどが理由で、女子車掌の採用が困難になってしまう。この影響もあり、1961(昭和36)年運輸省の運輸規則が改定となり、それまで「バスは車掌を乗せなければならない」という条項がなくなった。これを機にバスのワンマン運転化が急速に進み1980年代には略(ほぼ)路線バスの車掌さんは消えた。
その日、小学三年生の私は朝から何もかもがスムーズにいかず、家を飛び出した時には、毎日一緒に投稿する友達たちも既に出発した後だった。ああ、遅刻間違いなしか—、と思ったところに、バス停にバスがついた。バス通学は先生に禁止されているが、今日だけと飛び乗ったが、実は以前も同じような時に、バスに乗って遅刻を免れたことがあった。
この時、バスに飛び乗った私は違和感を感じた。車掌さんがいないし、その場所には変なボックス(のちに乗車券を発券するものと知る)がある、運転席の横にもドアがある。まあいいやと立っていた。車内はいつもと違い空いていたが、二つ目の停留所で降りるのであるから席に座ることもない。やがて一つ目の停留所が近づいたが、バスはスピードを落とすこともなく通り過ぎた。「えっ、なぜ」降りるはずの二つ目も猛スピードで通過した。「これって、もしかして急行」気付いた時には既に遅く、バスはビュンビュン学校から離れていく。
車窓を町や村や田圃がどんどん飛んでいく。まったく止まる気配がない。急行にしても留まらなすぎじゃあ「どこまで連れて行かれるんだろう」どんどん私は不安になり、心細くて涙が出てきた。やっと、運転手が「次は〇〇」とアナウンスした。数人が降りた一番後ろで私は大粒の涙を流しながら「ううう—、間違えました」と言った。運転手は、しょうがねえなという顔で私を黙って降ろしてくれた。私は泣きながら、今バスがすっ飛んできた道をトボトボと引き返した。
なんとか歩いて学校に着いた時には昼近くだった。担任の先生は何も言わなかった。今でも不思議なのは、この時、担任の先生はなぜ昼近くまで親からの連絡なしで登校していない私について、我が家に確認しなかったのかである。もし、確認の連絡をしていたら、行方不明で大騒ぎになっていただろうに。確実に私は大目玉を食らっただろう。私にとってはラッキーだったがいまだに謎である。
これが、私がはじめて私がワンマンバス、そして特急バスに乗った日の出来事である。もし、あの時「バスガール」の車掌さんがいたら、優しく「どこにいくの?このバスは違うよ」と乗る前に教えてくれたろうに、だから、今でもバスは嫌いだ。
編緝子_秋山徹












































































































































