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平成八年 清明

2026年4月4日 ~ 2026年4月19日

時間ですよ

爺様の春

風光る

清明_予報より遅れること四日ほど、多摩川土手の桜並木も満開となり、清々しい空気の中、明るい風景が連なっている。

河川敷で遊ぶ保育園児の〈歓声〉も心なしか力強い。

さくら さくら
やよいの空は 見わたすかぎり
かすみか雲か 匂ひぞいずる
いざや いざや 見にゆかん

桜を見ると同時に頭に浮かぶこの唄は、周知の通り、もともと琴に合わせて歌う琴唄であるが、この歌詞は二番で一番はあまり知られていない。

さくら さくら
野やまも里も 見わたすかぎり
かすみか雲か 朝日ににほふ
さくら さくら 花ざかり

二番とそんなに大きく変わらないのに、覚えられていないのは、大きく変わらないことゆえか。二番は誰もが知るだけに何だか一番が気の毒である。

野山に桜を見にゆく「花狩」は、当初、貴族の遊びであったものが武家に庶民と伝わり「花見」となったもので、中でも有名なのは、豊臣秀吉が慶長三(1598)年に醍醐寺の山一帯に桜を植えさせて催した〝醍醐の花見〟で史上最大の花見と呼ばれている。秀吉はまさにこの世の春を謳歌したのであるが、この五ヶ月後にはその生涯を終える。秀吉の死と、散りゆく桜の儚さが重なる。

日本で花といえば桜であるが、しかし定義が異なるという。〝桜〟は植物としての姿形そのものであるが、〝花〟は心に浮かぶ華やかな桜の姿である。眼で見て愛でるのが桜で、心眼に映り愛でるのが花であるそうだ。桜は春だけのもので、花は常に心にあるもの。

同じように、春風は春の光の中きらきらと光り輝く、これを〝風光る〟と表現するという。これが夏になると〝風薫る〟で薫風吹くと用いられる。

日本語は豊かで美しいと、ゆくゆくは河川敷の保育園児にも感じていただきたいと願う。

銭湯の春

私といえば、相も変わらず銭湯通ひを三日に一度のペースで続けている。

先日のこと、若い女性二人と銭湯の入り口で一緒になった。三十代と思しき若い女性二人(銭湯の口開けに通う私を含む爺様連中にとっては充分若くキャピキャピの部類に入る)である。もっと遅い時間なら男女共に若い人はいるだろうが、午后二時という口開けのこの時間では珍しい。通い出して三ヶ月という日の浅い私は初めて見かけた。

女性は十人並みよりも少しよろしい程度の容姿で、顔がそっくりだったので姉妹か双子だと思われた。会話から、片方がこの近所に住む片方の家に遊びにきて、銭湯に連れ立ってやってきたようだ。
「この時間に来たの初めてだけど、空いてそうね」
「そうね、まだ昼間だしね」
〈昼間からのんびり風呂入っててすみません〉
「ここの銭湯、サウナの別料金取らないから良いのよ」
「へえ、そうなんだ。珍しいね」
〈そうなんだよ、そこが良いんだよ_と言いそうになる私〉

私の前で銭湯代を払った二人は右の女湯へ、回数券を差し出した私は左の男湯へと涙の行き別れである_出来得るならば、親爺もそちらに入りたいと、常日頃、超ご高齢の御婦人たちが入られている時は、頭を擦りもしない感情が湧く。

男湯の脱衣所には、いつもの爺様が五人ほどいた。
女湯の脱衣所から、彼女たちの甲高い若い声が聞こえる。それが、洗い場へと移りキャピキャピした声が高い天井に響く。(重ねて言うが、我々爺様にとって三十代の女性は若い娘さんである)
婆様たちも、もとい、ご高齢のご婦人たちも、珍しいのか彼女たちに話しかけている会話が聞こえる。

銭湯に通ったことがある人ならお分かりだろうが、銭湯の女湯と男湯の境は上部分が吹き抜けになっているため、会話が丸聞こえである。混んでいる時には聞こえないものが、空いている時間には、はっきり聞こえるのである。いつもは両方からは水しぶきや湯船に浸かる時に爺様連中が発する「あ、あぁー」という声くらいである。

と、よく見ると爺様連中の挙動がおかしい。なんだか楽しげである。湯船に向かう足取りもなんとなく軽やかに見える。いつもの、もう先は長くねえからな、と言わんばかりの顔が穏やかである。いつも挨拶だけはする渋顔の爺さんが寄ってきて、
「なんだか、あっち(女湯)が賑やかだな」
「そうですね、入り口で若い女性(しつこいようだが、我々爺様にとって——)と一緒になりました」
「そうかい、へへ」
〈なにが、へへ、だかわからない〉

爺様がみな耳を澄ます中、女湯からは屈託のない話し声と笑い声が聞こえる。私も含め爺様連はほのかに幸せである。やはり、若い女性の力というのは素晴らしい。女湯に存在するというだけで、棺桶に片足を突っ込んでいる爺様にひと時の穏やかな幸福を与えてくれるのである。やはり若い女性は花である。

しかし、サウナに入っても若い女性の入浴時間は、暇な爺様に比べれば短い。やがて朗らかな声は、洗い場から脱衣所へと移り、悲しいかな消えた。

そのあと私を含めた爺様蓮は、この世の終わりかと思うほどの仏頂面で銭湯を出た。

春である。

編緝子_秋山徹