令和八年 大暑
慟哭

我慢とジレンマ
熱中症
大暑_夏本番を迎える頃である。
大暑の直前の七月二十日に関東の梅雨が明けた。と、同時に日本各地で猛暑の予報が飛び交った。
暑い! 暑いはずである、先日、生まれて初めて〝熱中症〟に罹った。都内だが我が家から電車で1時間40分ほどかかる場所で約束があり、早めに出かけた。たまには外でランチを摂りたかったのと、途中で済ませたい用事もあった。用事が思いの外早く済み、ランチも時間が掛からなかったため、時間が大幅に余ってしまった。とりあえず約束の地に行ったら、駅前にお茶を飲んで時間を潰すところもない。しょうがないので、公園の日陰のベンチで本を読んで40分ほど過ごした。
さて、そろそろ行こうとベンチを立ったら足に力が入らず、酔っぱらいのように千鳥足である。顔も熱っている。約束の場所に行ったら、私の様子を見た相手が熱中症ですねと言う。いや日陰のベンチに座っていたのですがというが、日陰でもなるんですよと返す。熱を測ると38.5度あった。麦茶を二杯いただき、両手に保冷剤を握らされた。30分ほど休んでいると38度以下となったので、約束の肝心の用事をすますことなくお暇する。帰りに持って行けとペットボトルのお茶をいただいた。
最寄りの駅に行く道すがら、歩みに相変わらず力が入らない。ペットボトルのお茶を飲み飲みヨタヨタと歩く。駅についてエスカレーターで降りている時、お茶を飲もうとしたら、左足の力がスコーンと抜けて、倒れてしまった。下りきったところでようやく起き上がったが、右手を擦り剥いて血が出ている。後ろから降りてきた若いお姐さんが、大丈夫ですかと声をかけてくれる。どうも熱中症のようですが大丈夫ですと返したら、心配そうに私を見ながら改札へと行った。先日道で転けた時もそうだが、こういう時に限って、なぜ若いお姐さんに見られてしまうのか、悲しさと情けなさが倍増である。
根性で、乗り換え3回を含め1時間40分かけて家に戻った時には、ヨレヨレのヘロヘロである。麦茶をがぶ飲みして水風呂に飛び込み体を冷やした。二時間ほどでどうにか体に力が入るようになったので、ベッドに横になり安静にしていたらようやく元に戻った。熱中症になって気がついたことは、暑さで体がやられていると全く汗が出ないということだ。そして、急に体の力がスコーンと入らなくなる。このスコーンというのが、力の抜ける状態を表すに一番ふさわしいと思う。熱中症は治ったが、この日以降両膝に痛風発作が出て水が溜まり、杖をつきながらヨボヨボの爺様状態になった。
熱中症予防のため寝るときは、あまり好きではないエアコンを入れて寝るようになった。しかし、部屋が冷えると体も冷える。体が冷えると頻尿となる。エアコンを入れると頻尿になり、消すと熱中症の恐れが、どちらを我慢すべきか迷う、ジレンマである。
我慢とは、苦境にあっても耐え忍び乗り越えるという、日本人の美徳の代表的なものとも言われるが、仏教語であるこの「我慢」の本来の意味は真逆であるという。「我」というのが己の中心にあり、自らを高くし他を侮るという〝おごりたかぶる心〟をいうらしく良い意味ではない。これが、我が強い、負けん気が強い、がんばる、辛抱すると変化し良い意味に姿を変えたようである。悪い意味の言葉が良い意味に生まれ変わる。人の営みはお釈迦様の言葉さえ替えてしまうようだ。
さらに蛇足であるが、知られるようにジレンマは、ラテン語の dilemmaで二つの選択肢があるが、どちらを選んでも上手く行かない状態に陥っていることを言うが、この選択肢が三つある場合をトリレンマ(trilemma)というと最近知った。
言葉というのは、日本語にしろ他国語にしろルールがあるようでないのが面白い。
二人の同級生
先週は旧暦のお盆・盂蘭盆であった。
お盆の頃になると、この時期に亡くなった二人の同級生を思い出す。二人とも中学一年生の時に亡くなった。
一人は池田くん(仮名)。
春のクラス対抗リレーの練習中のことである。学年の全クラスが運動場に出ていた。リレーのメンバーに選ばれていた私は、池田くんからバトンを受け取る順番となっていた。混雑するレーンを池田くんが走ってきた。バトンを待つ私に池田くんが今渡すからねと目で合図した。その次の瞬間、私の目の前3メールほどのところで、池田くんは突然宙を仰いだかと思うと、頭をのけぞり泡を吹いて仰向けに倒れた。私は五十年以上たった今でも彼が目で合図してから倒れるまでを、スローモーションで鮮明に思い浮かべることができる。野球部の顧問をしていた体育の教師が駆け寄り、誰かが差し出したボールペンを二本、池田くんの口に噛ませて、舌を噛み切らないようにした。やがて救急車が到着し彼を運んだ。
池田くんは、それから2ヶ月ほど入院して亡くなった。先天性の癲癇病みだったらしい。クラスで告別式に参列した。告別式が終わった後、池田くんのお父さんが私たちのところに来て「本日は、本当にありがと‥‥」と言ったところで、私たちの顔を見て泣き崩れた。それは慟哭であった。私は大人の男が号泣する姿を初めて目の当たりにして、その悲しみが幾重にも重くのしかかってきた。私たちはみな無言でお暇した。あのお父さんの悲しみが、姿が、今でも忘れられない。
二人目は恒見くん(仮名)。
恒見くんとは小学校からほぼ同じクラスだった。恒見くんには、小学生でありながら実直という言葉が当て嵌まった。真面目で勉強も運動もできるが決して奢ることなく、誰に対しても平等に優しく接した。小学生というのに、誠実が服を着ているのが恒見くんだった。小学校六年生の時には共に演劇クラブに所属していて、文化祭の時にやたら台詞の多い二人劇を彼と演じた。ストーリーは仲の良い友達がつまらぬことで喧嘩して疎遠になるが、最後には仲直りするといったものだったと記憶している。
中学生になるとクラスは違ったが、同じ剣道部に入った。夏休みに入ってすぐの頃、恒見くんは主将に「明日、お父さんと釣りに行くので練習を休ませてください」と申し出た。「なにおー」と激怒する主将。恒見くんのお父さんは自衛官で、休みの日にあまり一緒に過ごせないそうだった。恒見くんはそれを主将に真っ直ぐ話し、練習の休みを請うた。恒見くんの真摯な態度に気圧されたように、主将は渋々休みを認めたが、その日の練習中は、恒見くんへの〝可愛がり〟に終始した。
二日後、恒見くんが亡くなったという知らせが練習中の我々の元に届いた。磯釣りに出かけた恒見くんとお父さんだが、恒見くんが足を滑らせて磯から転落。助けに飛び込んだお父さんとともに二人は溺れ死んだということだった。お父さんの遺体が見つかった時には、ご遺体は息子をおんぶしている格好だったと聞いた。胸が痛んだ。
告別式に同級生と参列した。弔辞を恒見くんのクラスの学級委員が読んだ。いけ好かない奴だった。彼は泣きながら大人や教師が好みそうな作文を読んだ。奴は違う小学校から来ていたので、恒見くんとはたった三ヶ月ほど同級生だったはずなのに、まるで小さい頃からの友だったような内容の文を読んだ。涙も嘘くさい。姑息な奴だと思った。恒見くんが実直で誠実だっただけに腹が立った。顔を背けた先に、やはり小学校から同じクラスだったTがいて、お互いに目があったその時、我々は破顔った。おかしかったわけではない。嘲笑の笑いだった。不謹慎この上ないのは承知しているが、いま目の前で嘘くさい作文を嘘くさい涙で読んで知る奴を嘲笑することが、恒見くんを悼む行為にふさわしいと思った。葬式で破顔ったという行為と、破顔いながら腹立たしく悲しかった思いが鮮烈に今でも心に残るし、この頃から私の心根は変わらぬなと思う。。
中学校を卒業してからTとは疎遠になり、その後の人生を知らぬが、お互いこの性格では、要領良く立ち回る人生ではなかっただろうなと思う。
編緝子_秋山徹












































































































































