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令和八年 大寒

2026年1月20日 ~ 2026年2月3日

エェーッ‼︎ 

そうだ、銭湯 行こう。

小豆粥

大寒_冷気の中に、三寒四温で春の足音を探る日々。

一月十五日の小正月・左義長(どんど焼)が終わり、今年の正月も祝い納めの二十日正月となった。小正月の小豆粥には餅を入れ、これを粥柱と呼ぶ。今年こそは小豆粥を作ってみようと年末に小豆だけは買っていた。三が日で餅を食べ尽くしたので、買わねばと思っていたのがスコンと頭から抜け落ちていた。十五日に漢方医に診てもらった帰りに、八百屋の店頭で餅が売られていたのを見て慌てて買ったが、遅すぎて当日粥を作るには間に合わず。ちとずれるがこの二十日正月にいただくことにした。紅い粥がなんとも目出度く、粥柱の餅が腹を満たす。

十五日の漢方医は昨年末から診てもらうようになった。ガタガタの私の体調を見かねて、『昭和歌謡』のコラムを寄稿いただいている健康オタクの勝沼さんが探してくれた医者である。

漢方医の良いところは、西洋医のように採血の数値から簡単に判断しないところである。私の話をじっくり聴いて「気の流れが良くないようですから。気の流れを良くする薬を出しましょう」といって薬を処方してくれた。おかげてコロナに羅漢して以降調子の悪かった喉の具合が大きく改善された。ありがたいことに、常に指で押されて喉が痞え(つっかえ)ている症状がほぼ失くなった。その旨を漢方医にお礼ともども告げると「喉は気が滞ることの多い箇所ですから」との応え。後にこの喉の痞えを〝ストレス球〟と呼ぶと知った。

漢方医から云われたこともあるが、基礎体温を上げる努力をすることにした。以前、六本木に住まいがあった頃は、西麻布の温泉ミストのスチームサウナの温浴施設に週三回通っていてすこぶる体調が良かったのだが、引っ越して以降、距離的に、なにより金銭的に通えなくなったことが、体調を崩した原因であると思っていた。棲まうマンションの一角にスポーツジムがあり、そこには大浴場とサウナがあるが、サウナと風呂だけにスポーツジムに通うのもなんだかなと思うのと、月会費が二万円と年金生活者にとっては高い。そこで徒歩五分ばかりの場所に銭湯があるのを思い出した。調べてみると改装したばかりで、サウナとラジウム湯、電気風呂、薬湯、泡風呂があるというので早速行ってみた。サウナが無料ですこぶる快適である。(年上の爺さんの萎んだ裸ばかりでビジュアル的に爽快感はないが—)部屋に戻ってもポカポカと暖かい。早速、回数券を買い求めて通うことにした。

あの爺さんときたら

銭湯に通うのは、大学生の時以来五十年・半世紀ぶりである。あの頃、私の住んでいた二階建木造アパート『松風荘』は、六畳一間に半畳の流しと押し入れがあっただけで、家賃は確か一万六千円であった。風呂は当然なく、共同便所は〝ぼっとん〟で、夏には下から込み上げる臭気で目がスウスウした。歩いて五・六分の場所にかなり大きな銭湯があり、確か4時から12時までやっていた。

風呂好きだが、なにより人混みが大嫌いな私は、毎日、銭湯の口開けに、それにかかる時間の授業はすっ飛ばして通った。口開けから来る客は少ない。すぐに皆顔見知りとなる。大学生は私だけである。顔見知りとなった人の中に、白髪の坊主頭で痩せた爺ちゃんがいた。背中一面に彫り物が入っている。むかしはいい顔のお兄いさんだったらしいが、その当時はすでに好好爺の穏やかな爺様であった。こんな面白そうな人を私が見逃すわけもなく、すぐに友達となった。紋紋の爺様は、頭から足の爪先まで亀の子タワシひとつでゴシゴシ洗う。さすがに背中は手が届き辛そうなので、私はたびたびタワシでガシガシと紋紋を洗った。

シワだらけの背中には、困ったような顔をした赤鬼がいた。
「この背中の彫り紋なんですか」
「これはおめえ、不動明王だ。若い時に張りのあった背中の彫り紋が、歳食ったら萎んじまって何彫ってるかわかんねぇ。情けねぇ」
ふむ。なんとも返答のしようのない私。
爺様の左手の小指の先は欠けていて、その代わり歳の割には立派な下半身の棹には真珠が入っていた。
「懲役に落ちた暇な奴は、歯ブラシの柄を自分で削って削って球にして、同部屋の奴に入れてもらうんだが、俺のは正真正銘の真珠をちゃんと入れてもらったんだ」
と、胸を張って自慢する。
「この真珠が女のマメ(陰核)に気持〜ち良く当たるように、入れるわけよ」
「ほぉ〜、なるほど」
そして若い頃の女関係の武勇伝を語り出す爺様であった。
遠く過ぎし日の自慢話は罪がなくて良い。

二年ほど毎日のように背中をゴシゴシした爺様であったが、やがて、日が開くようになった。何せ歳である。多分八十近かったのではなかろうか。たまに会うと、どんどん痩せて背中の不動明王も細く、さらに困った顔になっていった。
でも、会うと「おうっ」と嬉しそうに笑う顔が良かった。
やがて、私はある女性と一緒に住むことになり、引っ越したため爺様に会えなくなってしまった。最後にお別れを言いたかったのだが、爺様には会えずじまいであった。

人生では、学校や仕事、家庭など、なんのシガラミもなく、行き合った人ほど記憶に残るのはなぜだろう。

そんな中、銭湯に時折やってくる若い人間がいた。ガリガリの痩せギスで目だけはギョロリとした男だった。服装や態度から大学生ではなさそうだった。我々、爺様連と小僧一匹の常連組とは没交渉であった。ある日、銭湯からの帰りが彼と一緒となった。私の後を彼が歩く。ずっと同じ道を着いてくる。どこまで着いてくる気だと思ったら、なんと同じアパート『松風荘』の住人であった。思わずお互い顔を見合わせた後、彼は階段を二階へ、私は一階の玄関正面の部屋に入った。

彼とは何度かアパートや銭湯で顔を合わすことがあったが、別に話をするわけでもなく、挨拶する仲にもならなかった。

十数年後、私はあるエッセイ本を読んでいて「エェー!」と大声で叫んでしまった。

エッセイには、フォークグループでアルバム・デビューし、そこそこのヒット曲を出しそれなりに活動した後にフォークソングをやめ、パンクロック・バンドとして再出発しアルバムも出したが、とにかく金がなく、六畳一間の風呂なし、共同便所の『松風荘』という木造アパートの二階の端の部屋に住んでいて、後を着けてきたファンがアパートを見て絶句していたと書いてあった。『松風荘』というアパートの名前と所在地、部屋の位置、住んでいた時期からして、私と同じ時に、同じアパートに住み、銭湯で見かけた彼であった。

それが、 RCサクセションで『雨上がりの夜空に』をリリースしたばかりの「忌野清志郎」であったとは。

当時テレビを持たぬ私も、RCサクセションの『雨上がりの夜空に』は聴いていて、たしかテレビ東京が夕方に放送していた音楽番組でRCサクセションが『雨上がりの夜空に』を演奏しているのを友人の下宿で観ていた。忌野清志郎も『僕の好きな先生』の曲で以前から知っていた。彼の後をつけて『松風荘』をみて愕然としたファン同様、まさか、仮にもテレビに出ている人間が、風呂なし共同便所の『松風荘』という同じ屋根の下に住んでいるとは夢にも思わなんだ。その当時から忌野清志郎は演奏時には髪の毛をツンツンにディップで固め、顔には化粧をしていたので、素顔を見かけていた私が気付くわけもなかった。

「忌野清志郎」の、その後の活躍を見るに、人生とはつくづく不思議なものよと思う。かつて同じ屋根の下で暮らした「忌野清志郎」も、もうこの世にいない。
銭湯通いを始めて思い起こした昔の話である。

編緝子_秋山徹