令和八年 雨水
富士山麓オウム鳴く

大いなる無駄
その決済はできません
雨水_草木を芽吹かせる雪解け水が流れ出す候。今年も農耕の準備が始まる時期である。
一月末に家人が、山形の啓翁桜(ケイオウザクラ)をいただいてきたのが、食卓の脇に置いてある。たくさん咲いていた花がほろほろと落ちて、鮮やかな葉が出てきた。この時期に桜が咲き、散って葉桜となるのを眺めるは、老いぼれの活力も不思議に湧いてくるものだ。
前回のコラムで節分に「小豆羊羹」を作ったことを書いたが、この時にあるトラブルがあった。野﨑洋光さんのレシピでは、餡子の仕上げに水飴を使う。そこで、VISAカードを利用してAMAZONで購入した。700円弱のものである。ところがVISAから決済不可の連絡メールがあった。常に利用限度額ギリギリの私のカードであるが、さすがに700円の余裕はあった。再度試みるも、またも決済不可メールが来る。
VISAに連絡したところ、現在、カード利用のほとんどは自動的にチェックされていて、いつもと違う方向性の利用があった場合や不正利用が疑われた場合には、自動的に決済不可になるのだという。いつも利用しているAMAZONでの購入である。どうにかならないのか、と問うも、一度判断されたものは変わらないという。唯一の方法としては、このチェック機能を無効化することであるが、そうすると不正利用を事前に防ぐことができなくなるという。AMAZONで類似の商品を購入されてはいかがですかという、理不尽であるなと思いながらも、700円の水飴に拘って不正利用のリスクを追うのも割に合わぬと、別の水飴を購入した。
以前のコラムで「機心」について記した。現代人は便利だと信じる機械に囲まれて、これを使っている気になっているが、本当は機械に使われちゃいませんか。道具としてスマートフォンを使い熟している気になっているが、肌身離さず持たされてスマートフォンに使われてやしませんかと。
中国の古書『荘子』の[天地篇]に「機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり」とあり、これが「機心」という言葉の出自である。
—ある時、孔子の弟子の子貢が田園地帯を歩いていて、重労働で畑に水を撒いている農夫に出会った。子貢が「お爺さん。〝はねつるべ〟という便利な仕掛けがありますよ」と言うと、農夫は答えて曰く「私も〝はねつるべ〟を知らぬ訳ではない。それを使えば楽になることはわかる。しかしそれでは、手ずから畑に一杯一杯水を与える精神性が損なわれる。私にとっては、楽をすることよりも、作物に対峙する精神性の方が大切であるので無用である」と返した。これに子貢はいたく感じ入ったという逸話が「機心」の項に添えられている。
「機心」と同じ思想の文章を、歌手でタレントの〝所ジョージ〟が『スーパートコロ辞典』という本に発していた。
「用が足りているものを、コンピュータとか機械にやらせちゃいましょう!っていうのが未来に向かっているという風潮だけど、私は違うと思う。
未来っていうのは、目の前にある暮らしが日々重なっていった先にあるモノですからね。
今一生懸命やっていることが階段のようになりそこを登っていった先に未来があるんだと思うんですよ。
それをAIにまかせて苦労も何もなくツーっと簡単に飛び越えて行きましょうなんて、人の暮らしじゃないでしょ?
そこ端折っちゃったら人生の意味が薄れちゃいますよ。
自分でできるのに、それをコンピュータやAIに任せて楽しようなんて。
その結果、いろんな不具合が起きて、自分が痛い目を見たり、世の中がおかしなことになっちゃうっていうね。」
全くもって素晴らしい哲学で、全面的に同意する。
私がAMZONで水飴を買えなかったのは、小さな〝いろんな不具合が起きて、自分が痛い目を見たり〟かもしれないが、頼みもしないのに、自分の消費行動が見張られているのも、気持ちの悪いものだ。穿った見方をすれば、ある特定の商品を購買できないようにすることも可能で、商品を生かすも殺すも〝機械次第〟であるということだ。
1円玉の時間
先の衆院選は、政権与党の圧勝に終わったが、その中で、AIの積極的な活用で明るい未来を創出するという政策を掲げた政党が11議席を獲得した。技術の活用が国政政党のメインの政策となり得るのが、甚だ疑問に思うが—。
この政党の若い党首が、党首となる前に出演したテレビ番組で語ったことが目に留まった。
彼曰く「一円玉って要らなくないですか。一億二千万人が一円玉というほとんど価値のないものを、財布の中で探す行為というものが膨大な無駄な時間の気がします」
ああ、彼は「01の世界の人間」だなと思った。膨大な0と1のみのコンピューターの思考。決して科学的思考ではないなと。いくら貨幣的な価値が低い一円でも、その概念が一円玉という実態で存在する重要性が彼には判らないのだろう。薄っぺらな〝時は金なり〟という概念に囚われている拝金主義の典型である。
彼に対する反論が卑近な例えで申し訳ないが、買い物に行った八百屋で983円の支払いで1,033円出して50円玉をお釣りに貰うなんていう一円玉の時間は、私にとっては束の間の頭の体操、〝ボケ防止〟の有意義な一瞬であるのだが。
彼に言わせれば、円周率3.149452…の3以下は必要ないだろうし、√2 ≒1.41421356を〝一夜一夜に人見頃〟、√3 ≒1.7320508を〝人並みにおごれや〟。√5≒2.2360679を〝富士山麓オウム鳴く〟と覚えるのは無駄な時間であろう。しかし、数学者にとっては、この整数以下の作る曲線こそがロマンではあるまいか。
多分彼にとって、日本の伝統・文化・芸術というものは、無用の長物ではあるまいか。文化・芸術といったものは、人間が生物として生きていく上では全く必要なものではない。これらは、ある種時間の浪費の上に成り立つ。無駄な時間の蓄積の上にあると言えるだろう。〝時は金なり〟信者の人間にとっては忌み嫌うべき時間であろう。
ニーチェは「本能。——家が燃えるとき、昼食をさえ忘れる。——そうだ、しかし灰の上で遅れ馳せに食べ直す」と『善悪の悲願』に記す。何があろうと食べなければ、人は生物として生きてはいけない。しかし、東北大震災の被害にあった着物の着付けの先生は、数ヶ月が過ぎて被害を免れた着物を纏った時に、震災以後始めて自分を取り戻した気がしたと云った。着物で腹はくちくはならない。しかし、精神は満たされる。
食物は生物として肉体に必要な栄養であるが、文化は人間として精神に不可欠な栄養である。
他人様、ましてや機械なんぞに、伝統や文化・芸術は無駄なものですからやめましょうと断じられる、そんな世界は私は嫌だ。
一円玉は芸術だ。
編緝子_秋山徹













































































































































